名前の由来は「ただ勝つのみ」。徳川家康を支えた四天王の一人、本田忠勝とは!?

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名前の由来は「ただ勝つのみ」。徳川家康を支えた四天王の一人、本田忠勝とは!?

大河ドラマ『どうする家康』で、山田裕貴さんが熱演している本多忠勝(ほんだただかつ)は、譜代家臣・本多忠高の長男として、幼いころから徳川家康に仕えました。19歳で、旗本先手役となり、以後は徳川四天王として、桑名に移されるまで家康を支え続けました。

その武功は、生涯57度の戦いに臨んだが、一度も不覚を取ることなく、しかも戦傷することすらなかったと伝えられています。

『紙本著色本多忠勝像』(千葉県指定有形文化財)

忠勝が世に出始めるのは、桶狭間の戦いの頃。大高城への兵糧入れに従軍した時からのことです。その後、今川との戦いや三河一向一揆の戦いでも武勇を示し、次第に、家康から高く評価されるようになりました。その後は、旗本先手段として、一軍の将として成長していきます。1566(永禄9)年には、都築秀綱(つづき ひでつな)をはじめ、騎兵50余人の与力をつけられました。

1570(元亀元)年、姉川の戦いでは、朝倉軍の備えを追い崩し、優勢の浅井軍に突撃して奮戦。また、三方ヶ原の前哨戦ともいえる一言坂の戦いでは、殿(しんがり)として、相手の武田軍を7、8度も返し合わせて撃退し、味方を無事撤退させることに成功しました。忠勝、25歳のときのことです。

いわゆる“神軍伊賀超え”では、少人数のままでの弔い合戦を望む家康を諫め、本国に戻ることを優先させました。その際、避難先では先頭を進み、家康を無事に帰国させました。小牧・長久手の戦いのときには、秀吉の大群に僅か300の兵で対抗したという武勇伝も残されています。

武勇だけではなく、上杉謙信との折衝では取次役を務めた他、本能寺の変直後の弔い合戦に向けても、美濃の武将などに協力を求める添え状を発給する等、外交面でも優れた手腕を発揮しています。

さらに、小田原攻めでは武蔵、上総、下総、上野、下野の5ヵ国で48の城を攻略したと伝えられています。

家康の関東転封後は上総国に入り、大多喜城10万石を領しました。

忠勝の武勇について、武田信玄の近習、小杉左近は自身の落書に、「家康に過ぎたるものは二つあり、唐(から)の頭(かしら)に本多平八」との狂言を残しています。

また、信長や秀吉からもその武功が称賛されています。

参考

市橋章男『家康を支えた三河武士 本田忠勝 井伊直政』(2017 正文館書店岡崎)

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