本当に江戸時代を代表する名君!?会津藩祖・保科正之「事績は脚色説」

日刊大衆

写真はイメージです
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 会津藩祖の保科正之は江戸時代を代表する名君として知られる。

 徳川家光の遺言で、その後継者の四代将軍家綱の後見人となり、江戸市中を焼きつくした明暦の大火の際には慌てふためく幕閣(幕府の老中ら)を尻目に難局を乗り越えた。

 その一方、藩政面では農民救済に力を注いだとされる。

 しかし、彼の事績の多くは藩が編纂した『会津藩家世実紀』の他、明治以降に会津藩出身の歴史学者らが記した『会津松平家譜』、さらには正之の伝記『千載之松』などに掲載されている話。藩祖となった人物の事績だけに美化された面は否めない。

 そこで、最近になって、この江戸時代を代表する名君の事績の見直しが進められている。はたして、その実像とは――。

 まずは通説による正之の生涯を振り返ってみよう。

 彼は慶長一六年(1611)二代将軍秀忠の末子として生まれた。将軍の子ながら、誕生の地は江戸城内ではなく、市中の神田白し ろ銀が ね町(東京都千代田区)だったという。

 母親は秀忠の乳母大姥局の侍女静。秀忠の正室江は側室や庶子の存在を許さないほど嫉妬深かったため、彼女を憚り、静は白銀町にあった姉婿の家で出産せざるをえなかったという。

 出生後も正之は江戸城内に入れず、武田信玄の次女見性院に預けられ、彼女に育てられた。静が仕えた大姥局が武田家にゆかりの者だった関係だとされる。

 元和三年(1617)、当時七歳だった正之はやはり、見性院の縁で武田家旧臣の信州高遠藩(長野県伊那市)の藩主保科正光の養子となり、二一歳で高遠藩三万石を継いだ。

 二六歳で出羽山形藩二〇万石を拝領し、高遠から山形へ移った際、高遠の農民らは善政を敷いた正之の時代の政治を偲び、「今の高遠で(身を)たてられようか。早く最上(山形)の肥後様(正之)へ」という唄が流行ったという(『千載乃松』)。

 そして、彼が山形藩主になった翌年の寛永一四年(1637)、最上地方は飢饉に見舞われたが、正之の政治が行き届き、「餓死人(者)」は出なかったという(『会津藩家世実紀』)。

 こうして三三歳のときに三万石加増のうえ、会津藩へ転封され、寛文一二年(1672)に六二歳で亡くなるまで善政を尽くしたとされる。

 その一例が社倉制度。中国宋の時代に、朱し ゅ熹き (朱子学の創始者)によって考案された制度で、飢饉や凶作に備えてコメを備蓄しておき、人々が困窮した際に給付するもの。日本で初めて正之が実施した。

 一方、父の秀忠は対面することなく没したものの、兄の家光からは信任された。『会津松平家譜』によると、家光は正之の大名行列を将軍と同列にすることを認め、慶安四年(1651)四月二〇日に亡くなる間際、正之を枕元に呼び、「家綱はいまだ幼少なので“汝に託す”」という遺命を残した。正之が涙を流して誓いを立てると、その様子に家光は安心して息を引き取ったという感動的なシーンに仕立て上げられている。

 こうして家綱の後見人として後の大老職に当たる重責を担い、明暦三年(1657)の一月一八日から二〇日にかけて発生した明暦の大火では、その指導力をいかんなく発揮したことになっている。

 火災発生の翌一九日、江戸城の本丸にも火が及び、狼狽した幕閣らが将軍家綱を上野の寛永寺(現・上野公園)へ避難させようとしたところ、正之は「上野へ御立ち退きになるのはもってのほか。城内の西の丸へ御移りになられるか、もし西の丸が焼失すれば本丸跡に陣屋を立て、そこにおはすべき」と主張して譲らなかったという(『会津藩家世実紀』)。

 将軍が避難したという噂が流れたら、市中の混乱に拍車が掛かったはず。それを未然に防いだのだ。

 その正之は亡くなる四年前の寛文八年(1668)、引き立ててくれた兄家光への感謝の気持ちから「会津家訓十五箇条」を定め、その中で「大君(将軍)の儀、一心大切に忠勤を存ずべく」(第一条)と記して歴代会津藩主の行動規範となった。

 では、彼の事績のどこが見直されつつあるのか。歴史学者・小池進氏の説に基づき、見ていこう。

 まず出生地だが、江戸市中ではなく、武蔵国足立郡大牧村(埼玉県さいたま市)の可能性が高くなった。

 それを裏づけるのが、生母静が大宮の氷川神社(同)に奉納した願文。正之が生まれる三ヶ月前、彼女が男子出生と安産を祈願したものだが、氷川神社は、静が世話になった見性院の知行地である大牧村の近く。

 したがって、大牧村で出産に備えた静が氷川神社に祈願するのは当然のことで、正之がそこで生まれたと見るのも理にかなう。

 また、その願文には秀忠の正室江の「しつと(嫉妬)の御こころふかく」とあり、一次史料で彼女の嫉妬心も証明された形だ。

■大火の際の活躍ぶりは少し誇張されていた!?

 続いて正之の藩政面も一部、見直されている。最上地方を襲った飢饉の際の対応だ。前藩主時代より年貢の税率を引き下げたものの、飢饉の際にも厳格に取り立て、ある村では屋敷持ちの農家六〇軒のうち、六〇人が身売りする末路になったという。

 正之が民衆のための政治に取り組んだのは事実だが、やはり封建領主として、民衆の生活より藩の財政を優先するところがあったのだろう。

 また、家光が臨終の際に正之へ家綱の将来を託したという感動的なシーンも史実ではなさそうだ。

 いくつかの史料から家光の病状が急変し、対面する予定だった御三家(尾張、紀伊、水戸)の当主も遠慮する状態だったというから、とても家光と正之の間で前述した内容のやり取りがあったとは考えられないのだ。あったとしても、家光の病状がまだ安定している頃の話だったであろう。

 明暦の大火の際の正之の活躍も誇張されているようだ。正月一九日に江戸城本丸に炎が迫り、正之が西の丸へ移ることを献策したというが、前土佐藩主の書状などの一次史料で、家綱が西の丸入りした際に供奉したメンバーに正之の名はなく、彼の動きが確実に分かるのは、その翌日の二〇日になってからだという(小池進著『保科正之』)。

 しかし、重大な案件について老中たちが正之に相談していた事実は確認できる。

 大火の際の活躍は誇張されていたとしても、事実上の大老として、家綱の政治を支えた名君であった事実に変わりはない。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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