本当に江戸時代を代表する名君!?会津藩祖・保科正之「事績は脚色説」 (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 会津藩祖の保科正之は江戸時代を代表する名君として知られる。

 徳川家光の遺言で、その後継者の四代将軍家綱の後見人となり、江戸市中を焼きつくした明暦の大火の際には慌てふためく幕閣(幕府の老中ら)を尻目に難局を乗り越えた。

 その一方、藩政面では農民救済に力を注いだとされる。

 しかし、彼の事績の多くは藩が編纂した『会津藩家世実紀』の他、明治以降に会津藩出身の歴史学者らが記した『会津松平家譜』、さらには正之の伝記『千載之松』などに掲載されている話。藩祖となった人物の事績だけに美化された面は否めない。

 そこで、最近になって、この江戸時代を代表する名君の事績の見直しが進められている。はたして、その実像とは――。

 まずは通説による正之の生涯を振り返ってみよう。

 彼は慶長一六年(1611)二代将軍秀忠の末子として生まれた。将軍の子ながら、誕生の地は江戸城内ではなく、市中の神田白し ろ銀が ね町(東京都千代田区)だったという。

 母親は秀忠の乳母大姥局の侍女静。秀忠の正室江は側室や庶子の存在を許さないほど嫉妬深かったため、彼女を憚り、静は白銀町にあった姉婿の家で出産せざるをえなかったという。

 出生後も正之は江戸城内に入れず、武田信玄の次女見性院に預けられ、彼女に育てられた。静が仕えた大姥局が武田家にゆかりの者だった関係だとされる。

 元和三年(1617)、当時七歳だった正之はやはり、見性院の縁で武田家旧臣の信州高遠藩(長野県伊那市)の藩主保科正光の養子となり、二一歳で高遠藩三万石を継いだ。

 二六歳で出羽山形藩二〇万石を拝領し、高遠から山形へ移った際、高遠の農民らは善政を敷いた正之の時代の政治を偲び、「今の高遠で(身を)たてられようか。

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