クーデターを防いだ功労者!岡崎クーデター後の山田八蔵のその後【どうする家康】 (2/3ページ)
ちなみに、尾張源氏は源経基の第二子・満政を祖とし、満政の六代孫にあたる源重遠が平安時代後期に尾張国春日井郡浦野(愛知県名古屋市北部)に住み着いたことが始まりの一族です。
山田氏・葦敷氏・高田氏・小河氏などの分家を輩出し、山田氏の著名な人物には、「戦いに優れ、器量良し。尚且つ民のことを労われる心優しい性格を持った人物」と称賛された山田重忠がいます。
加担するもクーデターを防いだ八蔵
天正3年(1575)、同輩の小谷甚左衛門の誘いを受け、大岡弥四郎たちの武田家内通計画に八蔵も加わります。しかし、八蔵は思いとどまり、計画の内容を信康に報告。これにより、弥四郎たちの計画を未然に食い止めました。当初、信康は計画のことを真に受けなかったといいます。
そこで、八蔵は信康の家来に間者として弥四郎たちに取り入ることを提案。弥四郎たちが密談をしたことを間者が報告したことで、ついに弥四郎たちの計画が露見しました。
また、計画が発覚した経緯には他説あり、弥四郎たちの計画を事前に知っていた家康が、信濃国に出入りする塩商人に事情や動向を探らせたというのもあります。
悲運な最期を迎える八蔵は弥四郎たちの計画を防いだ功績により、碧海郡(へきかいぐん)柿崎に500石の加増を受けました。ほどなくして、同郡大浜や額田郡上地も加増も受け、順調に所領を増やしていきました。