朝ドラ「らんまん」で田中哲司演じる徳永助教授のモデル!日本植物学の発展に尽力した松村任三の生涯①

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朝ドラ「らんまん」で田中哲司演じる徳永助教授のモデル!日本植物学の発展に尽力した松村任三の生涯①

朝ドラ『らんまん』に、徳永政市助教授という人物が登場するのをご存知ですか?彼は時として主人公の前に立ち塞がり、邪険な態度を取ります。

しかしモデルとなった人物・松村任三は、主人公のモデル・牧野富太郎にとって欠かせないほどの恩人でした。加えて留学も経験した国際派で、日本の植物学界に多大な足跡を残しています。

実際の松村任三は漢学の素養を身につけて、東京大学の前身機関に入学。やがて牧野富太郎の研究者生命の在り方に深く関わっていきます。

この記事を見れば、松村任三の生涯がよくわかります。朝ドラ『らんまん』を視聴する際には、より徳永助教授に思いを馳せることが出来るでしょう。

松村と牧野富太郎、そして田邊教授のモデル・矢田部良吉との関わりについても述べます。ぜひ3部構成の最後までご覧ください。

松村任三の生まれた時代〜幕末と尊王攘夷〜

安政3(1856)年2月14日、松村任三は常陸国(茨城県)多賀郡下手綱村で常陸国松岡藩家老・松村儀夫(よしお)の長男として生を受けました。幼名は辰太郎と名乗ります。

任三の生まれた時代は、日本が国難の真っ只中にありました。

彼が生まれる3年前の嘉永6(1853)年に、浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航。幕府に対して開国を要求する事件が起きましています。

この結果、日本中で尊王攘夷(外国人排斥)運動が盛んとなりました。特に中心となったのが、常陸国の水戸藩です。

前水戸藩主・徳川斉昭は幕府の海防参与に就任。自身の息子慶喜を将軍候補者に推していくなど、尊王攘夷派の代表的存在となります。

任三の生家である松村家も、水戸藩とは浅からぬ関係にありました。

父・松村儀夫が家老職を務める松岡藩2万石の藩主は、中山家です。中山家は水戸藩の(御)附家老でもあり、両者には交流がありました。

任三も水戸学など国学や、尊王攘夷思想の影響を多分に受けたと思われます。

朝ドラの中で徳永助教授は、英語が苦手で日本文学を好む人物として描かれていますね。松村任三の生まれ故郷や環境には、多分にそういった共通点が見つけられています。

幕末、外圧に対抗するために海防の必要性が説かれていた。

四書五経を暗記した神童、藩主の前で素読を行う

任三は幼少期から頭脳明晰な少年として知られていました。

わずか数え年3歳の頃から漢学を学び、わずか9歳にして藩校・就将館に入学して勉学や武術に励みます。

特に任三が力を入れたのが、儒学でした。

儒学は江戸時代、官学に位置付けられた学問です。儒学に通じているかどうかが出世の分かれ道となりました。

当時の江戸には、儒学の総本山として昌平坂学問所が設置。のちに東京大学の源流の一つとなるなど、人材教育の主軸とされていました。

儒学を学ぶ者たちが特に読んだのが、四書五経という経典です。

四書は『論語』『大学』『中庸』『孟子』の四つ。

五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の五つの経典を指します。

任三は四書五経を暗唱するなど、幼くして確かな学識を身につけていました。

文久元(1861)年、任三は水戸藩主・徳川慶篤の前で四書五経の素読を行うことを許されました。わずか数え年6歳という若さでのことです。

任三にとって、すでに将来は約束された状況でした。

長男ですから、家老職を継承することは確実であり、水戸藩主の覚えもめでたい…絵に描いたようなエリート街道を歩むはずでした。

論語。四書五経の一つとして読まれた。

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