操られた明智光秀!?「本能寺の変」の窮地を切り抜けた細川家との関係【前編】
明智光秀と細川藤孝
明智光秀の物語というと、どうしても織田信長との関係がクローズアップされがちですが、本当は光秀の人生を語る上で欠かせないのは、信長よりも細川家とのつながりです。もっと詳しくいえば細川藤孝でしょう。
以心崇伝賛『絹本着色細川幽斎(※細川藤孝)像』(Wikipediaより)
細川藤孝は、室町幕府13代将軍・足利義輝の側近だった人物で、その祖父は天皇の教師を勤めたこともありました。つまり藤孝は公家の血を引いており、当時としては最高クラスの知識人でした。
ただ、そんな彼が領地も主君も失ってしまったのが、1565年に起きた永禄の変です。三好三人衆の襲撃によって義輝が殺され、それに伴って藤孝も領地を失いました。
普通ならここで意気消沈するところですが、藤孝は失地回復のための計略を巡らせます。織田信長によって京都を奪還させて、義輝の弟にあたる足利義昭を15代将軍に立てて幕府を再興させようと考えたのです。
しかし、信長に出兵させるためには交渉役が必要です。そこで見出されたのが明智光秀でした。
光秀の出自ここで、明智光秀の出自についておさらいしておきましょう。結論を先に言えば、彼の前半生はほとんど謎に包まれており、もともと低い身分の出身だった可能性が高いです。
しかしその容姿と頭脳の明晰さから、高貴なところの出身と思わせるところがありました。それくらい頭が良かったのです。
彼の出自については、各記録書の断片的な内容をつなげていくことでたどるしかありません、そうして見ていくと、どうやら美濃の土岐氏の親類だったものの、牢人となったため朝倉義景のもとで十年とどまっていたらしいと分かります。
その後、朝倉家を出て細川家へ仕えました。興福寺の『多門院日記』では、荷物運びなどの下働きをしていたらしい記述があります。ただ、ここで家老からいじめを受けたため、信長に仕えることを希望するようになったとか。
それで、細川藤孝によって信長のもとへ送り込まれたのをチャンスと見て「転職」したのでした。光秀は信長に直訴して家来にしてもらい、細川家に戻らない旨は手紙で伝えたといわれています。
強みを活かすもっとも、光秀と細川家が断絶したわけではありません。むしろ光秀は、もともと細川家から遣わされたエージェントとしての役割ときちんと果たしていきます。
光秀一族は見た目もよく、フロイスの『日本史』では、彼の子女は欧州の王族のようだと評されており、光秀自身も美男子だったと思われます。同時に、彼には周囲にいいところの出身だと思い込ませるほどの風格も備わっていました。
さらに頭がよく、自分を信用させるテクニックも持ち合わせているのですから、細川藤孝がエージェントとして彼を送り込んだのも納得がいきます。
なにせ光秀は、友人たちに、他人を欺くための七十二の方法を会得したと吹聴していたというのです。彼はこうした自分の強みを活かして、うまく出世していったのです。
彼が現代のビジネスマンだったら、きっと「カリスマ〇〇」のような存在になっていたことでしょう。
彼が信長のもとに送り込まれた結果、どうなったかはご存知の通りです。信長は京都から三好三人衆を追い出し、足利義昭は室町幕府の15代将軍になりました。あわせて、藤孝も領主として返り咲くことに成功しています。
しかし、この明智光秀との関わりが原因となって、本能寺の変が起きた直後には細川家は窮地に立たされることになります。これについては【後編】で解説します。
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