操られた明智光秀!?「本能寺の変」の窮地を切り抜けた細川家との関係【前編】 (1/3ページ)
明智光秀と細川藤孝
明智光秀の物語というと、どうしても織田信長との関係がクローズアップされがちですが、本当は光秀の人生を語る上で欠かせないのは、信長よりも細川家とのつながりです。もっと詳しくいえば細川藤孝でしょう。
以心崇伝賛『絹本着色細川幽斎(※細川藤孝)像』(Wikipediaより)
細川藤孝は、室町幕府13代将軍・足利義輝の側近だった人物で、その祖父は天皇の教師を勤めたこともありました。つまり藤孝は公家の血を引いており、当時としては最高クラスの知識人でした。
ただ、そんな彼が領地も主君も失ってしまったのが、1565年に起きた永禄の変です。三好三人衆の襲撃によって義輝が殺され、それに伴って藤孝も領地を失いました。
普通ならここで意気消沈するところですが、藤孝は失地回復のための計略を巡らせます。織田信長によって京都を奪還させて、義輝の弟にあたる足利義昭を15代将軍に立てて幕府を再興させようと考えたのです。
しかし、信長に出兵させるためには交渉役が必要です。そこで見出されたのが明智光秀でした。
光秀の出自ここで、明智光秀の出自についておさらいしておきましょう。結論を先に言えば、彼の前半生はほとんど謎に包まれており、もともと低い身分の出身だった可能性が高いです。