【どうする家康】徳川家康の子づくり事情。たくさんの子どもが後の徳川支配を支えることになった (2/2ページ)

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後継争いが起こることを恐れたのか、次男の秀康は豊臣秀吉、次いで結城家の元へ、四男の忠吉は東条松平家、六男の忠輝は長沢松平家という風に、家康は、秀忠以外の男子を次々と、他家へ養子に出しました。秀忠に何かあれば、直ぐに呼び戻すつもりだったのかもしれません。

女子に関しては、徳川家と関係構築及び強化を望む武将の一族へ縁組させたり、本田忠勝の娘を、家康の養女としたうえで、真田信之に嫁がせたように、譜代の家から一度養女として迎えたうえで、嫁がせたりしていたようです。

結城秀康像 wikipediaより

関ケ原の戦い以降

関ケ原の戦い以降、家康は、男子を養子に出すこともありませんでした。九男の義直は、東海道の要である尾張、十男の頼宣は、京都・大阪と西国全体に睨みをきかせられる紀伊、十一男の頼房は、東北地方全体が監視できる水戸に置くという具合に、地方の要所に封じることにしました。これが、後に、徳川御三家となります。

秀忠が将軍職に就いて以降、江戸城に秀忠、駿府に家康という二大体制を整え、紀伊・尾張・水戸の御三家と、越前松平家が守るという形に整ったのでした。

参考

熊谷 充晃『徳川家康と16人の子どもたち』(2015 祥伝社黄金文庫)

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