ミスターも恐れたフォークの神様、213勝精密機械!レジェンド杉下茂、北別府学追悼、昭和スター投手「豪腕」伝説と「素顔」

日刊大衆

写真はイメージです
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 杉下茂と北別府学球史に残る偉大な投手が相次いで、この世を去った。

 6月12日に亡くなった杉下氏は、享年97。2年前に白血病が判明してから闘病生活が続いていた北別府氏は、同16日に逝去。65歳の若さだった。

「“フォークの神様”として知られる杉下さんは、創成期の中日で通算215勝。最多タイとなる3度もの沢村賞に輝いた大エースです。一方の北別府さんは“精密機械”と称された制球力で、同213勝。1975年の初優勝から続いた“赤ヘル軍団”の黄金期を支えました」(球界関係者)

■川上哲治や長嶋茂雄も

 そんな2人川上哲治や長嶋茂雄もの生きざまは、いかなるものだったのか。“神様”杉下氏のフォークには、かの川上哲治氏も「捕手が捕るのに苦労するような球を打てるわけがない」。長嶋茂雄氏も「いつ来るのかと打席では恐怖を覚えた」と振り返っているが……。

「杉下さん自身も“手から離れたら行く先はボールに聞いてくれ”と表現したように、彼のフォークは、今で言うところのナックルに近い不規則な軌道。1試合で投げるのも数球と、まさにここ一番でのみ解禁される“魔球”でした」(前同)

 チームを初のリーグ優勝、日本一へと導いた1954年には、自身もセ・リーグ初の投手5冠。当時、史上初3度目の沢村賞に輝いた。

 だが実は、当の杉下氏は、この年を最後に“宝刀”フォークを自ら封印。後年になって「まやかしのボールで打ち取っても面白くなかった」とも語っている。

「自著で“(現代的な)フォーク中心の投球をしていれば、もっと成績が残せたかも”とも述懐されていましたが、それだけ直球に自信があったんです」(同)

 ちなみに、当時の中日・天知俊一監督は、杉下氏とは高校からの師弟関係。

「杉下さんいわく、登板日は“月初めに天知ちゃんと2人で喫茶店に行って決めていた”。天知さんから渡される日程表に杉下さんが“行ける日”の印をつけ、それ以外を他の投手でまかなう形だったそうです」

 杉下氏は、チームのため、先発中継ぎ問わずの活躍。とくに優勝を飾った54年は、63試合に登板して、395イニング以上投げた。

「ただ、コーチ転身後は“登板間隔をきちんと守るように”と指導していたのも印象的でした」(同)

■“投手王国”の礎に

 一方の北別府氏も、2度の沢村賞に輝くレジェンドだ。動作解析の研究対象にもなったほど理想的な投球フォームは“投手王国”広島の礎となった。3学年下の後輩だった解説者の金石昭人氏は、こう語る。

「当時は、どのコーチからも“ペー(北別府の愛称)の投げ方を見ろ”と言われたし、僕を含めて若手は、みんな“プロの矜持”を北別府さんの背中から学んだ。しかも、後輩の登板もちゃんと見ていて、マズい投球をすると、“しっかり投げろ”という意味で“何しよるんじゃ!”と、愛のある檄が飛ぶ。僕なんかもよくドヤされたものですよ」

 ふだんは温和で後輩の面倒見もよかったが、嫌いなランニングは手を抜きがち。

■何人も寄せつけないエースの気迫

 だが、一度マウンドに立てば、何人も寄せつけないエースの気迫が漂った。

「コーチがマウンドに来ても“次、誰ですか?”と聞いて、信頼に足る投手でなければ“だったら自分が投げます”。そこに誰からも異論が出ないほどの絶対的な存在。それが、あの頃の北別府さんでした」(前同)

 16日、全選手が右袖に喪章をつけて臨んだマツダスタジアムの西武戦では、左腕エース・床田寛樹が、偉大な先輩に捧げる完封勝利。

 その背番号「28」は、北別府氏の生涯完封数と奇しくも同じだった。

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