甲斐武田家は2度滅んでいた!?天目山で迎えた1度目の武田家滅亡をご紹介【どうする家康】 (2/3ページ)

Japaaan

信満の死

足利義詮の助言で幕府が上杉禅秀の乱に介入した/Wikipediaより

しかし、室町幕府が介入したことで戦況が悪化。翌年の応永24年(1417)に禅秀が自害し、乱が収束し始めます。一方、信満は討伐軍の攻撃により、自国の甲斐国まで撤退しました。

しかし、武田氏庶流の逸見有直が持氏と次期甲斐守護職就任を条件にした密約を快諾。

これにより、有直に裏切られた信満は天目山に追い詰められた末に山中の木賊村(とくさむら)で自害しました。

甲斐武田家の一時断絶と再興

足利義教/Wikipediaより

以後、甲斐守護職を歴任していた甲斐武田家は信満の死と信満の嫡男・信重の出家により、一時的に断絶します。その後、有直は甲斐守護職就任を望みましたが、幕府はこれを許しませんでした。

「甲斐武田家は2度滅んでいた!?天目山で迎えた1度目の武田家滅亡をご紹介【どうする家康】」のページです。デイリーニュースオンラインは、甲斐武田家、どうする家康、戦国時代、カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る