「肖像画の先駆者」藤原隆信の疑惑「伝源頼朝像」作者は別人説の真相 (3/4ページ)
肖像画で最も大事なのはいうまでもなく「顔」であり、当時、隆信は三〇代半ばだったが、世間では肖像のプロという認識があり、だからこそ宮廷絵師の中に割って入れたのだろう。
のちに日本絵画史上、「この作品をもって肖像画の誕生とする」とされ、兼実がわざわざ障子絵鑑賞に出向いたほど、当時から話題になっていた作品だ。
少しあとの時代の話になるが、隆信の子の信実が「似絵」好きな後堀川上皇のために、院の御所に仕える者らの顔をスケッチしていることが分かる(『古今著門集』)。
■「隆信筆」と確定できる作品はほとんどない!?
一方、肖像画の技法が父隆信から彼へ伝えられているのはこれまでの研究で明らかになっており、隆信もスケッチという方法で写実的な「顔」を表現することに成功していたとみられる。
それはまた、後白河法皇の近臣であるからこそできた成果であったはず。近臣ゆえに、建春門院の行啓に随伴する大臣以下をすぐ近くでスケッチする便宜を図ってもらえたのだ。
もし彼が院の近臣でなかったなら、「その道のプロ」になれなかったかもしれない。残念ながら隆信筆と確定できる作品はほとんどないが、スケッチをはじめとする技術や作風は確実に子の信実に引き継がれ、父の死後、信実は後鳥羽院や後堀川院の宮廷サロンで「似絵の名手」として活躍するのである。
順徳天皇の中殿御会(御所の中殿で行われる催し)の参列者を描いた「中殿御会図巻」(模写が現存)や「後鳥羽上皇像」(水無瀬神宮蔵=国宝)、「随身庭騎絵巻」(大倉集古館蔵=国宝)の一部などが信実筆とされる。
特に『吾妻鏡』は承久三年(1221)七月八日付で〈今日、上皇御落飾(中略)これより先、信実朝臣を召して御影を模さる〉と記し、後鳥羽上皇が承久の乱で幕府軍に敗れ、落飾(出家)して隠岐に配流される直前の姿を信実に描かせたことが分かっている。
父の隆信の時代と比べると、活躍の場面が一気に広がり、息子の信実こそが肖像画を絵画のジャンルとして確立させた功労者と言える。