「肖像画の先駆者」藤原隆信の疑惑「伝源頼朝像」作者は別人説の真相 (2/4ページ)
このように隆信は歌人として恵まれた環境で育ち、肖像画家としてよりまず、歌の世界で世に出るのだ。
一方、ここからは肖像画が登場する背景について触れておこう。もともと肖像画を描くことはタブーだったようだ。その人に似せて描くということは「ひとがた」などの呪符に使われかねないからだ。
しかし、時とともに肖像画への抵抗感が薄まり、院政の時代にはなくなっていた。特に隆信が生きた平安時代末から鎌倉時代初めにかけては、芸術全般にそれまでの形式的な様式が飽きられ、写実的な作風が好まれるようになっていた。
こうして後白河法皇の院政時代には、人物の特徴を写実的に表現した行事絵が絵巻物として描かれるようになった。行事には多くの人々が描かれている。それまでなら人それぞれの個性はどうでもよかったが、写実性が求められた院政時代には、そうもいかなくなってきたのだ。
たとえば、仁安元年(1166)に六條天皇が大嘗会の禊のために賀茂川まで行幸して身を清める行事を行うと、その際の絵を藤原宗茂という画家が描いた。
彼は朝廷の中務省内匠寮に置かれた画所に所属した宮廷絵師(画家)だ。こうして、まず肖像画は群衆像として描かれ始めるのだ。
隆信の作品として確認できる二例とも群衆の肖像画だった。特に注目すべきは承安三年(1173)に落慶した最勝光院の障子絵として建春門院(後白河法皇の皇后)の行啓(皇太子や皇后が出かけること)の様子などを描いている作品。
全体をまとめたのは常盤光長という宮廷絵師だが、平清盛政権の実務官僚だった吉田経房が後の関白九条兼実に「行啓に供奉した大臣以下の面(顔)だけは藤原隆信が担当した」と伝えている(『玉葉』)。
わざわざ彼が顔だけ描くようになった理由も『玉葉』に説明があり、現代流に言うと「その道のプロだから」ということのようだ。