「軍艦で攻めるぞ!」脅しにもケロッとしてペリー提督とやり合った、徳川幕府の交渉力 (3/3ページ)

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そして、五港の開港要求については、前年に受け取った書簡に地名が指定されていないことから、下田と箱館の二港だけに限られることになりました。

林は恫喝に委縮することなく、ペリーの言い分の矛盾と隙をついて、日本にとってできるだけ有利になるように交渉を進めたのです。

情報戦で裏をかいた日本

これだけ見ると、当時の日本(幕府)は意外と強気だったんだな……と思いがちですが、実はこれにはタネがありました。日本は、アメリカの裏情報を密かに掴んでいたのです。

当時のアメリカは東アジアへの進出が遅れており、日本とは早く通商条約を結びたがっていました。よって日本へ過度に刺激を与えるつもりはなく、また当時のアメリカは本当に100隻の軍艦で他国を攻めるほどの国力を持っていませんでした。

幕府は、これらの情報を事前にオランダを通じてキャッチしていました。だから強気に出られたのです。

ちなみに、ペリーも必ずしも強圧的で好戦的なだけの軍人ではありませんでした。

ペリー提督像(函館市)

彼はアフリカ艦隊の司令長官だった頃、黒人奴隷を祖国に帰す運動に志願して、アフリカに再移民させる船団を指揮していますし、また日本に来る直前も、日本への理解を深めるために関連書籍40冊以上に目を通して研究したといいます。

もちろん、だからと言って「ペリーが実は日本に対して深い理解を持つ親日家だった」などという結論にはなりませんが。

彼らは彼らで日本という国のことを研究した上で、かの国には本気で攻撃するつもりはなくとも、砲艦外交で交渉に臨むのが適切であると結論づけたということです。

日本(幕府)が開国したのは、アメリカとの交渉が上手くいったからこそであり、単に武力で脅された結果ではなかったということが分かるでしょう。

参考資料
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年

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