大阪の陣、徳川家康は豊臣家を滅ぼす気はなかった!?【どうする家康】

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大阪の陣、徳川家康は豊臣家を滅ぼす気はなかった!?【どうする家康】

関が原合戦直後、徳川家康は豊臣秀頼の存在を憚り、いろいろなことをするのに、少し遠慮していた様子があります。ところが、1603(慶長8年)に、家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開くと、一気に立場が逆転しました。その2年後、家康は秀忠に征夷大将軍を譲り、天下に徳川の世であることを知らしめました。

徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)wikipediaより

以後、家康は豊臣政権の諸権限を吸収し、幕府の体制を盤石なものにしました。例えば、京などの主要都市の支配、佐渡金銀山などの鉱山の直轄化などはその良い例でしょう。

1614(慶長19)年、方広寺の鐘銘に「国家安康」という文言があり、家康は自分の名前が二つに分けられていると指摘、そのことがきっかけとなって、大坂冬の陣が起こります。

実際に戦闘が始まると、両軍は激しい戦いを繰り広げます。豊臣方についた真田信繁は、徳川方を相手に勝利するなど、両者の力は均衡していました。当初想定していなかった豊臣軍の奮闘により、やがて両軍は、和睦の機運が盛り上がってきます。和睦に際しては、それぞれ条件が出されましたが、最終的に、豊臣方が大阪城本丸などの埋め立て、惣構を破却すること、大阪城から浪人を退去させることなどで、合意に達しました。

通説では、この条件は、家康による陰謀で、後の豊臣家を滅ぼすための口実だったなどといわれていますが、どうやらその可能性は低く、むしろ、家康は元々、孫だった千姫の婿だった秀頼を滅ぼそうとは考えていなかった可能性の方が高いようです。

千姫姿絵(弘経寺蔵)wikipediaより

家康は、大阪城の防御機能が失われれば、豊臣家は反旗を逆らってこなくなるだろうと考えていました。また牢人がいなくなれば、徳川家に抵抗する武力がなくなります。家康とすれば、それで十分でした。

ところが、大阪城の惣構の破却、堀の埋め立ては約束通り履行されましたが、牢人は退去しませんでした。さらに豊臣方の家臣の中には、反徳川のものも多く、隙があれば、挙兵を計画していました。こうした事情が重なり、ついに家康は、豊臣家を滅亡に追い込もうと考えました。

翌年5月、大阪夏の陣が起こりますが、今度は徳川方が圧倒的に戦いを有利に進めました。戦闘中、豊臣方は、後藤又兵衛、真田信繁といった主力となる武将を次々と失ってしまいます。

秀頼と淀殿は、ついに大阪城で自害し、豊臣家は滅亡してしまうのでした。

豊臣秀頼像(養源院蔵)wikipediaより

両者の関係性がここまでこじれてしまったのは、そもそも、豊臣家が、「牢人の退去」という和睦の条件を履行しなかったことに非がありました。豊臣家が、素直に、家康側の言うことを聞いていれば、一大名として存在できた可能性があります。ただ、豊臣家にも豊臣家としてのプライドがあり、一家臣でしかない価格の徳川家の意向に従う気はなかったのでしょう。大阪の陣は、そうした両家の、意地とプライドの衝突の結果発生した争いだったのかもしれません。

『伝淀殿画像』(奈良県立美術館所蔵)wikipediaより

参考

吉本健二『真説 大坂の陣』(2005 学研M文庫)

岡田 秀文『大坂の陣』(2022 双葉文庫)

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