暗愚の悪評も…武田勝頼が悪評を受けた理由と実際におこなった功績を紹介【どうする家康】 (2/3ページ)

Japaaan

この当時は家を守ることが重要視され、それと反対のことをした場合は愚かな行いとして見られていました。

そのため、「勝頼は武田家を滅ぼした暗愚の武将」として評価が確立されてしまいました。しかし、近年では勝頼を見る目が変わってきており、再評価され始めています。

勝頼の功績

山県昌景/Wikipediaより

勝頼が生前に残した大きな功績は「武田家史上最大の領地拡大をした」ことです。勝頼は元亀4年(1573)の信玄の死後、翌年の天正2年(1574)に東美濃に侵攻。苗木城や阿寺城、千旦林(せんかんばやし)城といった遠山十八支城(岩村遠山氏が所有する城や砦)を次々と落としました。

そして、同年2月には山県昌景が美濃・尾張・三河・遠江攻略の拠点となる明知城や飯羽間城を攻略しました

その勢いのままに5月には遠江支配強化のために高天神城へ侵攻します。城主の小笠原信興は、徳川家康から援軍が来ないまま60日間籠城しましたが降伏。ついに、勝頼は信玄が落とせなかった高天神城を攻略すると共に、領地拡大を成し遂げました。

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