暗愚の悪評も…武田勝頼が悪評を受けた理由と実際におこなった功績を紹介【どうする家康】 (3/3ページ)
しかし、怒涛の勢いも1年と続かず、天正3年(1575)の長篠の戦いでの大敗を機に失墜していきました。その後は、勢いを取り戻すことができず、天正10年(1582)に天目山の戦いの敗北により勝頼は自刃しました。
最後に勝頼は諏訪家の家督を継いでいたので、武田家の家督を人間ではありませんでした。しかし、家督を継ぐべき人間がいなかったが故に家督を継いだ背景があります。
また、側室の子だったこともあり、勝頼が当主になったことに反発を持った人物もいた方かもしれません。
勝頼はその人物達を納得させるために約1年で領土拡大させたと考えると勝頼の実力は本物だったと言わざるを得ません。
それでも武田家を滅亡させた張本人ということで、悪評を受けたしまったことは残念に感じます。勝頼に正当な評価が確立されてほしいばかりですね。
出典:伊藤潤『敗者烈伝』2016年、実業之日本社
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