昭和天皇が満州事変を止められなかったのは何故?天皇と軍の微妙な関係【前編】
なぜかうまくいった満州事変
戦前の日本というのは、歴史全体でいえば現代から見てそれほど大昔ではありません。
しかし政治史ひとつとってみても、天皇の位置づけが今と大きく異なっている点や、軍隊が存在している点などが現代とあまりにも違いすぎて、当時の歴史感覚をつかむのは難しいところがあります。
一方で、当時の天皇と軍隊の関係を知っておかないと理解できない事柄も多く、有名な満州事変もそのひとつです。
満州事変とは、1931年9月18日に関東軍が満鉄(南満州鉄道)の線路を爆破し、それを中国軍の仕業として報告したことから始まった一連の出来事です。
柳条湖事件と呼ばれる最初の事件を口実に、当時の関東軍は満州全土を占領し、1932年に満州国を建国しました。
ただ、柳条湖事件や林銑十郎による「越境」など、満州事変は基本的に関東軍などがやらかしたトンデモ行為で、本当ならうまくいくはずがありませんでした。誰もが予想しなかった幸運な偶然やそれぞれの思惑が偶然にいい方向に作用したように見えます。
そして、そんな中でも理解に苦しむのが、満州事変と当時の天皇の関係です。なぜ天皇は、満州事変にストップをかけなかったのでしょうか。
「越境将軍」も死刑を免れる例えば、当時朝鮮軍司令官だった林銑十郎は、先述した通り、関東軍と連携して満州事変を拡大するために、自らの判断で朝鮮半島から満州に越境しました。これは軍法違反であり、死刑もあり得る行為でした。
しかし林銑十郎は死刑になるどころか「越境将軍」ともてはやされており、あげくその後は、ほんの短い期間ですが内閣総理大臣にまで上り詰めています。
また政府も、軍の動きに追随する形で予算を組んでその行動を容認しています。こうした動向に対して、当時の昭和天皇はどう考え、どのように動いていたのでしょう。
楽観的に見られていた満州事変まず押さえておきたいのは、昭和天皇は基本的には満州事変には反対しており「不拡大」の方針だったことです。
その一方で、軍による侵略が進んでなし崩し的に満州占領が容認されていく中で、天皇の言動にもある種のぐらつきが生じていました。
まず満州事変は当初、満州鉄道の爆破に対する自衛行動という名目で起こされていることがポイントです。よって軍の中央部も政府も昭和天皇も、満州事変は短期間の治安出動で終わるだろうと楽観的に見ていました。
この楽観論が生じたのは、当時の奈良侍従長が状況について甘い見通しを報告していたためと言われています。よって昭和天皇も、この段階では特に行動を起こしていません。
しかし関東軍や一夕会は最初から満州全土、それどころか華北まで占領するつもりでした。満州事変に対する認識には、当事者と政府との間で大きなズレがあったのです。
【後編】では、その後の陸軍の動きに対して、天皇がどのように動いていったのかを見ていきましょう。
参考資料
井上寿一『教養としての昭和史集中講義』SB新書・2016
倉山満『学校では教えられない歴史講義 満洲事変』KKベストセラーズ・2018
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