昭和天皇が満州事変を止められなかったのは何故?天皇と軍の微妙な関係【後編】

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昭和天皇が満州事変を止められなかったのは何故?天皇と軍の微妙な関係【後編】

詔勅命令も効果なし

【前編】では、満州事変が当初はすぐに収束すると見られており、当時の昭和天皇も明確な形でストップをかけていなかったことを解説しました。

昭和天皇が満州事変を止められなかったのは何故?天皇と軍の微妙な関係【前編】

朝鮮軍独断越境のような、本来なら死刑でもおかしくない軍法違反を、天皇が比較的あっさり容認して事後承諾を認めたのも、彼が事変は速やかに収束するだろうと考えていたからでした。

昭和天皇(Wikipediaより)

ちなみに天皇から軍に対する命令として詔勅命令というものがあります。これは本来は大変重い意味を持つものだったのですが、昭和天皇が即位してから最初の陸軍への詔勅命令(臨命第一号)は、この朝鮮軍独断越境を事後承諾するものでした。

本来なら詔勅命令なしでやってはいけない越境が、なんと事後承諾で容認されたことを見ても、天皇の命令が軽んじられていたことが分かるでしょう。

これは、天皇の「命令」に関するシステムにも原因があります。細かいことは省略しますが、詔勅命令と言っても天皇自身がみずから考え発令する命令というものは存在しません。天皇ができるのは「下問」といって質問の形で問うことだけでした。

よって、もともとこれには強制力がなく、これでは軽んじられても仕方ないと言えるでしょう。

狡猾な関東軍

もちろん、天皇大権の発動という伝家の宝刀は存在しており、昭和天皇はこれの発動も検討しています。しかし侍従長から反乱が起きかねないと説得され、諦めるしかなかったのが実態でした。

また政府も、当初は満州事変に対しては「不拡大」の方針でしたが、世論が一時的に満州進出をもてはやしたことと党利党略が重なり、ここでもなし崩し的に容認する流れになります。

昭和天皇は、その後の関東軍による熱河作戦についても「長城の線を越えないように」と意見を付していますが、これもあっさり破られています。さすがに、これについては天皇も腹を立てました。

関東軍や陸軍省は、状況を見ながら天皇の命令をのらりくらりとかわしていたようです。例えば、一度行軍についてストップをかけられても、攻撃を受けたことを口実になし崩しに行軍を再開する。また、天皇の意向は無視したり、曲解したり、遅らせたりすることで自分たちの目的を遂行したのです。

昭和天皇はこのような状況に苦悩しましたが、有効な手段を見つけることができませんでした。まとめると、彼は満州事変に際して、最初はストップをかけなかったし、その後はストップをかけても効き目がなかったということです。

戦前日本人のメンタリティ

私たちは長い間、戦後の教育によって、戦前の日本は天皇を中心とした軍国主義国家だった……と単純に教え込まれてきました。しかし満州事変における各方面の動向を見ただけでも、話はそう単純ではないことが分かります。

昭和天皇も政府も、なんであれむやみに侵略行為を行うことはよろしくないと考えていました。

満州国が承認された当時の内閣総理大臣・斎藤実(Wikipediaより)

一方で、関東軍も体制的には天皇に従わなければならない立場でありながら、その天皇の命令には実際的な効果がない、という関係でした。「天皇が中心」と言うには中心の権力が弱く、「軍国主義国家」と呼ぶほど軍国主義一辺倒でもなかったのです。

むしろ、天皇制システムや軍の存在などの体制的な事柄はさておき、関わった人たちのメンタリティだけを見れば現代の私たちとそう変わらないといえるでしょう。

満州事変は、形骸化した命令系統、なし崩しの事後承諾を容認するお役所仕事、党利党略を優先する政府によって、はっきりした責任者がよく分からないまま進められていったのです。

最近はあまり言われませんが、天皇の戦争責任問題の議論が難しくなりがちなのも、裏を返せば当時の昭和天皇には戦争責任を問えるほどの権力がなかったからだとも言えるでしょう。

参考資料
井上寿一『教養としての昭和史集中講義』SB新書・2016
倉山満『学校では教えられない歴史講義 満洲事変』KKベストセラーズ・2018

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