何で私が猿の妾に?羽柴秀吉に嫁いだ織田信長の娘「三ノ丸殿」とは【どうする家康】 (3/3ページ)
秀吉の元へ嫁いだ時期や経緯については諸説ありますが、三ノ丸殿という名前が伏見城の三ノ丸に住まいを与えられたためなので、秀吉が伏見城を築きはじめる文禄元年(1592年)ごろと推測されます。
同時期に氏郷の妹・三条殿(さんじょうどの)も秀吉の側室という体で人質に出されており、三ノ丸殿もそうした意味合いがあったのでしょう。
三ノ丸殿が初めて史料に登場するのは慶長(1598年)3月、醍醐の花見。彼女は四番目の輿で参列、側室としては第三位に遇せられていた事がわかります。
(一番目は正室の北政所、二番目は側室の西ノ丸殿=茶々、三番目は同じく松ノ丸殿、五番目は加賀殿)
やがて同年8月に秀吉が亡くなりました。恐らく数年間の結婚生活が、三ノ丸殿にとって幸せであったかどうかは、察するよりほかありません。
ともあれ三ノ丸殿は妙心寺に韶陽院を建立、その菩提を弔いました。
やがて喪が明けた慶長4〜5年(1599〜1600年)ごろに前関白・二条昭実(にじょう あきざね)と再婚します。
昭実は三ノ丸殿の異母姉(信長六女・さこの方)を娶っていましたが、先立たれていました。姉の夫と再婚するというのは、複雑な気持ちだったかも知れませんね。
ともあれ二度目の結婚生活を始めた三ノ丸殿。しかし慶長8年(1603年)に世を去ってしまいました。
法号は韶陽院殿華厳浄春大禅定尼(しょうよういんでんけごんじょうしゅんだいぜんじょうに)。墓所は京都・妙心寺にあり、雑華院には没後間もなく描かれたと考えられる肖像画が現代に伝わっています。
終わりに以上、三ノ丸殿について紹介してきました。天下人の娘として生まれながら成り上がり者の妾にされ、その死後に再婚した生涯は短くも波乱に満ちたものでした。
他の娘たちについても、また改めて紹介したいと思います。
※参考文献:
『寛政重脩諸家譜 第三輯』国立国会図書館デジタルコレクション 岡田正人『織田信長総合事典』雄山閣出版、1999年9月 森実与子『戦国の女たち 乱世に咲いた名花23人』学研M文庫、2006年2月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan