五代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院「“玉の輿”の先駆け説」は本当か!? (2/3ページ)

日刊大衆

『婦女伝』は「(お玉が)六条宰相有綱( 有純)卿の息女お梅の方の縁故で江戸へ出て(江戸城の大奥に入り)、大猷公(三代将軍徳川家光)の時代に春日局(家光の乳母)の指南を受けて、秋野という候名(下臈女房の奉公名)を称し、(将軍の)側に仕えた」とある。

 その後、お玉は正保三年(1646)正月に家光の子の徳松という男児を出産。家光の死後、髪を下ろして桂昌院と号し、延宝八年(1680)五月に四代将軍家綱が亡くなると徳松が五代将軍綱吉となり、「本庄家(旧北小路家)の一族は言うに及ばず、御縁類御遠族(つまり遠い親戚まで)ことごとく取り立てられた。また、(彼女は)神仏を信仰する心篤く、諸寺諸社の多くを再建し、元禄一五年(1702)二月に従一位に昇進した」という。『婦女伝』に基づく彼女の生涯はざっとこんなところだが、一つずつ肉づけしていこう。

 まず彼女が江戸城大奥に入り、春日局の指南を仰ぐきっかけを作った「お梅の方」とは何者なのだろうか。一般には「お万の方」で知られる。伊勢神宮に所属する慶光院という尼寺の院主だったとされるが確証はない。

 ただ通説は、院主就任の挨拶のために江戸城へ上った彼女の尼姿を見て家光がひと目で気に入り、還俗させて側室にしたとされる。彼女が家光の愛妾だったのは確かだ。

 そのお万の実家(六条家)とお玉の義父が家司を務める二条家は関係が深く、その縁でお万の部屋子として、お玉が江戸城大奥に呼ばれたのだろう。そして、お玉が春日局の目に留まり、行儀作法を含めた指南を受けるようになったという流れだ。

 ちなみに家光には正室の鷹司孝子の他、お振の方、お楽の方、お万の方(前出)、お夏の方などの側室がいて、お振は早くに亡くなり、代わって側室となったお楽はのちの四代将軍家綱を産んだものの、彼女もその後、亡くなった。お万の方には子がなく、お夏は徳松から見ると二歳上の兄に当たる徳川綱重(甲斐国甲府二五万石の藩主)を産んでいた。

 一方、お玉の子である徳松は元服して綱吉と名乗り、父家光から上野国館林二五万石を与えられていた。

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