五代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院「“玉の輿”の先駆け説」は本当か!? (3/3ページ)
家光の死後、四代将軍に任じられた家綱になかなか男子が生まれず、その状況下でお夏とお玉それぞれの生んだ男児が次の将軍候補とされたため、二人の確執がドラマなどで取り上げられるのは至極当然の話。実際に確執はあったのだろう。
当時、桂昌院(お玉)と順性院(お夏)と号していた二人のうち、この将軍位を巡る争いで優位に立ったのは桂昌院。順性院の産んだ綱重が延宝六年(1678)、三三歳の若さで他界したからだ。その二年後、将軍家綱も世子をもうけず危篤に陥り、次の有力な将軍候補は綱吉と綱重嫡男の綱豊(のちの六代将軍家宣)となった。
結果、春日局の養子で若年寄(当時)の堀田正俊の意見が容れられ、家綱によって綱吉が次の将軍に指名されたのである。
こうして八百屋の娘が将軍生母となって従一位という異例の昇進を遂げ、一族をことごとく繫栄させたのだから、これ以上の「玉の輿」はない。しかし、「玉の輿」の「玉」を桂昌院とするのは俗説。
■生家を再建したことで「玉の輿」に乗れた!?
彼女が生まれる前の戦国時代の史料にも「玉の輿」の文字が見え、そこでいう「玉」は天皇などの高貴な人を指す。つまり、高貴な人が乗る輿のこと。
ところが、桂昌院の場合、あまりにも鮮やかに高貴な人(この場合は将軍)が乗る輿、すなわち、「玉の輿」に乗って栄達したために、彼女にその由来があると誤解されるようになったのだろう。
それでは彼女と記事冒頭の今宮神社とは、どんな関係があるのだろうか。桂昌院が護国寺(東京都文京区)や護持院をはじめ、多くの寺社を建立、あるいは再建したのは事実で、今宮神社は彼女の実家とされる八百屋のある西陣の産土神(土地の神)。桂昌院の時代、境内は荒れ果てており、そのことを嘆いた彼女が再建したと伝わる。
彼女が生家の産土神を再建したからこそ玉の輿に乗れたのだとしたら、それにあやかろうという男女で賑わうのも頷けるところだ。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。