唐入り(朝鮮出兵)の黒幕?でんでん演じる“黒衣の宰相”西笑承兌とは何者か【どうする家康】

Japaaan

唐入り(朝鮮出兵)の黒幕?でんでん演じる“黒衣の宰相”西笑承兌とは何者か【どうする家康】

唐入りを先導した、語学堪能な“黒衣の宰相”

西笑承兌 さいしょうじょうたい
[でんでん]

秀吉の政治顧問、外交役も務めた臨済宗の僧。明を手に入れるべく唐入りを目論む秀吉に入れ知恵し、泥沼の戦へと突き進む原因を作る。その後もしぶとく生き残り、家康にも使える(原文ママ)。

※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト(登場人物)より

……随分と悪意に満ちた人物紹介ですね。まるで「秀吉の朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)はコイツのせいだ」と言わんばかりです。

文中「その後もしぶとく生き残り」という表現には「本来ならば責任をとって死ぬべきだろ」という非難が感じられます。

果たして彼はそんな生きていることを非難されるような悪人だったのでしょうか。今回は西笑承兌の生涯をたどってみましょう。

秀吉の政治顧問として、各分野で活躍

西笑承兌(画像:Wikipedia)

西笑承兌は天文17年(1548年)、山城国伏見(京都市伏見区)で誕生します。その出自についてはよく分かっていません。

幼いころから出家して仏門に帰依し、臨済宗の仁如集堯(にんじょ しゅうぎょう。一山派)に師事しました。

やがて夢想派に転じて中華承舜(ちゅうか じょうしゅん)の嗣法(しほう。法をつぐこと、転じて後継者)となり、天正12年(1584年)に京都相国寺の住職となります。

相国寺は臨済宗相国寺派の大本山でしたが、当時は火災や戦乱でたびたび焼け落ちるなど、すっかり荒廃していたそうです。

それをみごとに再興した西笑承兌は中興の祖と呼ばれるようになりました。続く天正13年(1585年)には鹿苑僧録(ろくおんそうろく)として臨済宗の最高権威に上り詰めます。

その後は南禅寺に入ったり鹿苑僧録に戻ったりしていたら羽柴秀吉(演:ムロツヨシ)に見込まれて政治顧問に抜擢。諸法度の整備や教育振興など、各方面に活躍しました。

また羽柴秀長(演:佐藤隆太)や豊臣秀頼(演:作間龍斗)とも交流を深めたと言います。

朝鮮出兵に際しては李氏朝鮮に対する国書を起草、日朝の戦端を開く一助となりました。和睦交渉においては明の使者からもたらされた秀吉への冊封状(※)を読み上げ、秀吉を激怒させたエピソードも有名です。

(※)冊封とは中国大陸の皇帝(=世界の頂点)が辺境政権に対して現地支配のお墨付きを与えること。ここでは秀吉を「日本国王に任命してやる」との態度をとったため、見下された秀吉は激怒したのでした。

秀吉の尻拭いに当たる家康たち(イメージ)

やがて慶長3年(1598年)に秀吉が世を去ると、西笑承兌は徳川家康(演:松本潤)と共に李氏朝鮮や明国との和平交渉に尽力します。このことから、何も積極的に大陸進出をしたかったのではなさそうです。

その後も家康の外交分野を担当し、慶長5年(1600年)には謀叛の疑いをかけられた会津の上杉景勝(すえすぎ かげかつ)との交渉に当たりました。

この時、上杉家老の直江兼続(なおえ かねつぐ)から送りつけられた書状が世に言う直江状。その挑発によって家康は会津征伐を決定、天下分け目の合戦が始まったと言われています(直江状については創作説もあるようです)。

西笑承兌が世を去ったのは慶長12年(1608年)12月27日。享年61歳の生涯に幕を下ろしたのでした。

終わりに

以上、西笑承兌の人生を駆け足で紹介してきました。果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」ではどのような描かれ方をするのでしょうか。

どんな人間も功罪あわせ持っているのは仕方ありませんが、彼の功績についてもスポットライトが当たり、魅力が伝わるような演出に期待しています。

※参考文献:

上田正昭ら監修『日本人名大事典』講談社、2001年12月 藤井讓治 編『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年7月

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「唐入り(朝鮮出兵)の黒幕?でんでん演じる“黒衣の宰相”西笑承兌とは何者か【どうする家康】」のページです。デイリーニュースオンラインは、西笑承兌仁如集堯中華承舜羽柴秀長どうする家康カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る