「どうする家康」大勝利だが拭えぬ不安。第32回放送「小牧長久手の激闘」振り返り

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「どうする家康」大勝利だが拭えぬ不安。第32回放送「小牧長久手の激闘」振り返り

羽柴秀吉(はしば ひでよし)による織田家乗っ取りの野望を阻止するため、織田信雄(おだ のぶかつ)と共に立ち上がった「我らが神の君」徳川家康(とくがわ いえやす)。

家康は小牧山城に、秀吉は楽田城に……両軍のにらみ合いが続く中、羽柴方の池田恒興(いけだ つねおき。勝入)が中入りを献策。別動隊が家康の本拠地である岡崎城を攻めてみせることで家康をおびき出し、その背後を秀吉の本隊が衝いて挟撃しようと言う作戦です。

果たして中入りが始動したものの、なかなか家康は動きません。まさかこのまま、岡崎を見捨ててしまうのでしょうか?

秀吉がいぶかしがっていると、実は家康が密かに用意した(守りを固める堀に見せかけた)抜け道から、中入りの軍勢を奇襲します。

永井直勝(右)に首級を奪られた池田恒興(池田勝入信輝)。首級は直勝が手にする黒布に包まれ、血が滴っている。「小牧長久手合戦図屏風」より

不意を衝かれた池田恒興は婿の森長可(もり ながよし)ともども討死。いわゆる小牧長久手の合戦は家康が勝利を収めたのでした。

……第32回放送「小牧長久手の激闘」のあらすじをごくざっくりまとめると、こんな感じになります。

ところどころ徳川四天王(榊原康政・本多忠勝・井伊直政・酒井忠次)が紹介され、最後は海老すくいならぬ天下すくい踊りで盛り上がりました。

しかし石川数正(いしかわ かずまさ)は目先の勝利を喜べず、家康は秀吉に勝てないなどと、不吉なことを口走るのでした……。

それでは今週も、気になるトピックを振り返っていきましょう!

「その手は既にお見通し」中入りを読み、敵の裏をかいた家康

一番槍の武功を上げた榊原康政。こちらは秀吉を追い詰める場面(史実ではないが、軍記物語などで愛される)。史楊洲周延「小牧山ニ康政秀吉を追フ」

……卯月六日池田勝入。森長一。堀久太郎秀政に三好孫七郎秀次を総手の大将とし。二万餘騎の兵をわけて楽田より東の山にそひ。小牧の御陣を右にして篠木柏井にかゝりたり。こは御勢多半は小牧にありと志りて。みかたのうしろにまはり三河の空虚をうたんとのはからひなり……

※『東照宮御実紀』巻三 天正十一年-同十二年「小牧山役(長湫戦、大戦之四)」

天正12年(1584年)4月6日、池田恒興は森長一(長可)、堀秀政(ほり ひでまさ)が出撃。総大将は秀吉の甥・三好秀次(みよし ひでつぐ。羽柴秀次)、総勢2万の大軍を率いています。

これは家康が戦力の大半を小牧山に集中させており、手薄になっている三河を討つふりをしておびき出そうとする作戦です。

この部分は基本的に劇中どおりですね。さて、対する我らが神の君は?

……君は兼て篠木の郷民等が告によりかくと察し給ひ。大須賀。榊原并に水野惣兵衛忠重。本多彦次郎康重。丹羽勘助氏次。岡部彌次郎長盛などいへる名にあふものらに。甲州穴山勢をそへすべて四千餘の人数にて。敵に志らせじと轡を巻て龍泉寺山の麓をへ小幡の城にいたらしむ……

※『東照宮御実紀』巻三 天正十一年-同十二年「小牧山役(長湫戦、大戦之四)」

家康は地元住民からの通報により、中入りの動きを察知します。

そこでさっそく大須賀康高(おおすが やすたか)・榊原康政(さかきばら やすまさ)・水野忠重(みずの ただしげ)・丹羽氏次(にわ うじつぐ)・岡部長盛(おかべ ながもり)らに兵4千を与え、敵に覚られぬよう出撃させました。

後に榊原康政が一番槍の武功を立てたことが、劇中でも言及されていましたね。

……君は其注進をきかせ給ふと其まゝ。戌の時ばかりは小牧山を打立せ給ばへ(※給へば、の誤植と思われる。引用者註)。信雄も御跡にしたがふ……

※『東照宮御実紀』巻三 天正十一年-同十二年「小牧山役(長湫戦、大戦之四)」

先発隊からの報告を受けた家康は、午後20:00ごろに小牧山を出発。信雄もこれに従います。

……惣大将秀次は春日井郡白山林といふ所にて。人馬をやすめかれゐくひてゐたり。折ふし霧深くものゝあいろも見分ざる所に。味方跡より喰付てはげしく伐てかゝれば。秀次が陣こはいかにとあはてふためき。秀次の軍師と頼みし穂富の某をはじめ。名あるつはものどもあまたうたれ。秀次はからうじて落延たり……

※『東照宮御実紀』巻三 天正十一年-同十二年「小牧山役(長湫戦、大戦之四)」

一方その頃、総大将の秀次は白山林で兵馬を休憩させていたところ、家康の奇襲を受けてしまいました。

まさか、こんな所に家康が……秀次らは慌てふためき、多くの将兵を討ち取られる事に。

軍師の穂富(ほとみ)ナニガシはじめ名だたる者たちを喪い、秀次は生命からがら逃げ延びたのでした。

この辺りは、劇中でも描かれていましたね。池田恒興らはこの一連で討たれた印象ですが、彼らはまだ抗戦しています。

井伊の赤備えと池田恒興・森長可の最期

安藤直次に討たれる池田之助。「小牧長久手合戦図屏風」より

……井伊万千代直政が二千餘兵を先とし。御旗下には小姓の輩并甲州侍のみ供奉し。直政が勢は富士の根の切通しより進めば。君も其跡より田の中をすぐに引つゞきかゝらせ給ふ。井伊が赤備長久手の巽の方よりゑいとうゑいゑいとかけ聲して堀が備に競ひかゝる……

※『東照宮御実紀』巻三 天正十二年「甲冑勝川之由来」

さて、秀次を蹴散らした家康は堀秀政を襲うため、井伊直政(いい なおまさ)を先頭に進撃します。

直政は武田旧臣の精鋭「赤備え」など2千余騎を率い、堀秀政の陣を巽(たつみ。南東)の方角より襲撃したのでした。

劇中にもあったように、敵はすわ武田の再来かと恐れたでしょうか。

……池田森が人数は山際より扇の御馬印朝日にかゞやきをし出すをみて。すは  徳川殿みづから来り給ふといふより。上下しどろにみだれ色めき立しに。直政が手の者下知してかけたつれば。森武蔵長一まづうたれ。池田勝入もみだるゝ勢をたて直さんと下知しけるが。永井傳八郎直勝につきふせられ首をとらる。其子紀伊守之助も安藤彦兵衛直次に討る。この手の大将池田父子森三人とも討れしかば。戦はんとする者もなくひたくづれにくづれたり。味方追討して首をとる事一万三千餘級なり……

※『東照宮御実紀』巻三 天正十二年「甲冑勝川之由来」

池田恒興・森長可らは朝日に輝く扇の馬印を見て、まさか家康自身がやって来たかと大慌て。

息もつかせず井伊直政の赤備えが襲いかかり、まずは森長可が討ち取られます。

何とか態勢を立て直そうと必死に指揮をとる池田恒興でしたが、永井直勝(ながい なおかつ)に討ち取られ、首を獲られてしまいました。

また池田恒興の子である池田之助(ゆきすけ。池田元助)も安藤直次(あんどう なおつぐ)に討ち取られます。

大将クラスの武将が3人も討ち取られてしまったため、残兵らはすっかり戦意を喪失。総崩れとなって逃げ出しました。

こうなると後は首を刈り取り次第、徳川勢は13,000もの首級を上げたそうです。

……ちょっと首級の数は盛っていそうですが、果たして池田・森らは討ち取られ、家康らは勝利を収めたのでした。

劇中ではナレーションだけでしたが、武士たちの立派な最期を描くこともまた、時代劇の醍醐味ではないでしょうか。

たとえ一人でも食い止める!本多忠勝の剛勇ぶりに秀吉も感動

俗説では、本多忠勝(左)と加藤清正(右)が一騎討ちを演じたとも(史実ではないが、歴史ファンとしてはこういう場面も楽しみである)。楊洲周延「小牧役 加藤清正 本多忠勝」

……秀吉は楽田の本陣にて長久手の先手大敗すと聞て。敵今はつかれたるらん。いそぎはせ付て討とれと其まゝ早貝吹立させ。惣軍八万餘人を十六段になして押出す。小牧山にのこされし諸将の中にも。本多忠勝かくと聞て。  殿の御勢立直さゞる間に。京勢大軍新手を以て押かゝらば以の外の大事なり。忠勝一人たりとも長久手に馳行て討死せんといへば。石川左衛門大夫康通も尤なりと同意し。忠勝も康通もわづかの勢にて龍泉寺川の南をはせ行ば。京勢は大軍にて川の北をゝし進む。忠勝我こゝにて秀吉が軍の邪魔をせば。其間には  殿も御人数を立直さるべしとて。秀吉の旗本へ鉄砲打せて挑みかゝる。流石の秀吉膽をけし。さてさて不敵の者も有ものかな。誰かかの者見知たるやととへば。稲葉一鉄侍りしが。鹿の角の前立物に白き引廻しは。先年姉川にて見覚えたる徳川が股肱の勇士本多平八にて候と申す。秀吉涙をながし。天晴剛のものかな。をのれこゝにて討死し主の軍を全くせんとおもふとみえたり。我彼等主従を終には味方となし被官に属せんと思へば。汝等かまへて矢の一筋もいかくべからずと下知しとりあはざれば。忠勝も馬より下り川辺にて馬の口をすゝがしむ。秀吉其挙動を感ずる事かぎりなし……

※『東照宮御実紀』巻三 天正十二年「秀吉感本多忠勝剛勇」

さぁ中入り作戦が大失敗、大きな犠牲を出してしまった秀吉は、逆転を賭けて大軍を繰り出します。

こうなったらなりふり構わぬ覚悟で8万の軍勢を総動員して家康を叩き潰すつもりです。

この動きを知った小牧山の本多忠勝(ほんだ ただかつ)。出撃した家康の留守を任されていましたが、いても立ってもいられません。

しかし小牧山に残された兵はわずか。敵の進路を妨害したところで、秀吉率いる8万騎を食い止めることなど不可能。一瞬でもみつぶされてしまうでしょう。

「それでも構わぬ。殿を見殺しにするくらいなら、この生命に用はない!」

忠勝の決意に感動した石川康通(いしかわ やすみち)、そうともその通りと同意して、二人でわずかな手勢を率いて秀吉を追いかけます。

「ここから先は、一歩も通さぬ!」

まさに蟻が象に挑むような暴挙ですが、むしろその狂気に驚いた秀吉は、あれは何者かと尋ねました。

「あの鹿角の前立物は、いつぞや姉川の合戦で見かけた本多平八。徳川家中きっての勇士にござる」

稲葉一鉄(いなば いってつ)の解説を聞いて、秀吉は涙を流して感激に打ち震えます。

「徳川殿には、あれほど忠義の勇士がいたのか。実に羨ましい。いつかきっと、徳川殿ともども我が家臣に迎えてみせる。よいか者ども、あの者らに決して矢など射かけてはならんぞ!」

もし忠勝らが殴り込んでくれば、その時は数に任せて押し潰せばよい。秀吉は忠勝の心意気に免じて、進撃を止めました。

すると、その様子を見た忠勝は馬を下り、川辺で馬に水を飲ませたのです。

馬から下りれば機動力・攻撃力ともに落ちます。また馬に水を飲ませれば腹が重くなり、これまた不利は避けられません。

まして目の前には敵の大軍が広がる状況。普通に考えれば愚行以外の何物でもありませんが、生命がけで度胸を示した忠勝の心意気に、秀吉はますます感激したのでした。

第33回放送「裏切り者」

とまぁこんな具合に大勝利を収めた「我らが神の君」。しかし秀吉には奥の手が残されています。

「この戦の総大将は、家康ではにゃあ」

では誰かと言えば、織田信雄。彼を揺さぶって講和してしまうことで、家康から戦いの大義名分を奪ってしまうのでした。

次回が初登場。老獪な戦術で徳川勢を翻弄する真田昌幸(画像:Wikipedia)

さて、次週第33回放送は「裏切り者」。初登場の真田昌幸(さなだ まさゆき)、そして最古参の石川数正にスポットが当たります。

前に北条氏との争いで切り捨てられた恨みを持つ真田昌幸は越後の上杉景勝(うえすぎ かげかつ)と組んで徳川軍を翻弄。

また石川数正は、秀吉に寝返ってしまうのでした。数正によって家康の軍事機密(戦術など)を漏洩された家康たちは、手の内を見通されて窮地に陥ります。

果たして我らが神の君が、どのように切り抜けるのか、次週も目が離せませんね!

※参考文献:

『NHK大河ドラマ・ガイド どうする家康 後編』NHK出版、2023年5月 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション

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