最後はどうなった?長いものに巻かれ続けた織田信雄の人生をご紹介【どうする家康】 (2/5ページ)
そして、永禄12年(1569)には伊勢国(現在の三重県北中部)に勢力を持つ北畠家の養嗣子となります。
北畠家の家督を相続後は、天正4年(1576)に養父の北畠具教(きたばたけ-とものり)や家臣たち14人を謀殺する三瀬の変を起こし、伊勢国を掌握。
勢いを得た信雄は、隣国の伊賀国(現在の三重県西部)も掌握できると高を括り、信長に無断で伊賀国へ侵攻します(第一次天正伊賀の乱)。
この戦いで勝利していたのならいいものの、結果は大敗。無断で兵を率いたことと戦いの敗北が信長の怒りを買い、親子の縁を切ると言われる程の叱責を受けました。
その後は信長が軍を率いた第二次天正伊賀の乱で伊賀国を平定されています。
豊臣秀吉と対立するも家臣となる
天正10年(1582)に起こった本能寺の変の際、信雄は明智光秀に対抗すべく進軍しますが、撤退しています。