徳川家を出奔した石川数正(松重豊)、秀吉に仕えてその後どうなった?【どうする家康】

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徳川家を出奔した石川数正(松重豊)、秀吉に仕えてその後どうなった?【どうする家康】

「関白殿下是天下人也(関白殿下、これ天下人なり≒だから秀吉に臣従せよ)」

NHK大河ドラマ「どうする家康」では、そう書き残して徳川家康(松本潤)の元から出奔、豊臣秀吉(ムロツヨシ)に寝返ってしまった石川数正(松重豊)。

その後、彼はどうなったのでしょうか。今回は『寛政重脩諸家譜』より、石川数正の晩年を紹介したいと思います。

秀吉との和睦・臣従を進言

石川伯耆守康昌(数正)。「長篠合戦図屏風」より

……数正すゝみ出ていはく、秀吉天下の半を領して諸将おほく其下風にたつ。今御麾下の士彼に比すれば其なかばにもたらず、かつ北に上杉あり、東に北條あり、三方の敵を受ばたとひ一旦利を得るとも永く敵しがたし。其望にまかせ早く和議を許容したまひて、万歳の謀をなしたまふべしとなり。東照宮御気色よからず、我寡兵なりといへども何ぞ大兵を畏れむやとて、其使者に御答なかりしかば、其のちしばゝゞ使者をもつて和をこふにより、遂に御許容ありて越前中納言秀康卿大坂に至らせたまふ。数正したがひたてまつり、男康長等を彼地にとゞめて仕へしむ。十三年十一月数正かつてより岡崎の留守たるのところ、ゆへありて岡崎を出奔し、大坂にいたりて太閤につかふ……

※『寛政重脩諸家譜』巻第百二十 清和源氏(義時流)石川

天正12年(1584年)、小牧・長久手の合戦で緒戦の勝利を収めた家康に、秀吉との和睦を進める場面から見ていきましょう。

「秀吉は今や天下の半分を支配し、多くの将兵を抱えております。一方、当家の勢力はその半分にも足りません。さらに北の上杉景勝・東の北条氏政(駿河太郎)が揃って敵に回れば、とても生き延びることはできないでしょう。今は和睦して今後の策を講じるべきです」

数正の進言に家康は腹を立て「我ら寡兵なれども、何ゆえ敵の大軍を恐れることがあろうか」と強がります。

しかし結局は秀吉と和睦、人質として於義伊(後の越前中納言秀康)を秀吉の養子に送り出しました。

この時に数正は息子たち(石川康長・石川康勝。そして末子の石川半三郎?)と共に大坂へ赴き、息子たちはそのまま豊臣家に仕えます。彼等も実質的に人質です。

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一度は戻ってきた数正ですが、やがて天正13年(1585年)11月に故あって岡崎から出奔。家康を見捨てて、秀吉に仕えるのでした。

かなりの好待遇ではあったけれど……

松本城。数正もこの天守閣から城下を見渡したかったに違いない(画像:Wikipedia)

……のち従五位下に叙し、出雲守にあらたむ。十八年七月小田原落城の後、信濃国松本の城主となり八万石を領す。文禄二年卒す。的翁宗善筒三寺と號す。室は内藤右京進某が女。

※『寛政重脩諸家譜』巻第百二十 清和源氏(義時流)石川

さて、ここからが本題ですが、秀吉に仕えた以降、石川数正の晩年は正直あまりパッとしません。

秀吉のもとで従五位下・出雲守に叙任され、天正18年(1590年)7月に北条氏政・北条氏直(西山潤)が滅ぶと、信州松本城主として8万石を与えられました。

この地は前に家康が治めていたのですが、秀吉の命令で家康が関東に国替えとなったため、その後に入った形です。

これはこれで大層な出世ながら、秀吉や政権中枢からは距離を置かれてしまいます。

考えてみれば、どんな事情であれ永年仕えた主君を見捨てるような者は信用できませんし、また家康から送り込まれたスパイとも限りません。

徳川家中に秘されていた戦術など機密情報を抜き取るだけ抜き取ったら、後はポイ。秀吉は他家の者たちにもそういう手を使っており、数正もその一人だったようです。

そして文禄2年(1593年)に世を去りました。享年61歳。

終わりに

石川伯耆守(数正)。若き日より家康に仕え、数々の武勲を立てて来た。大蘇芳年筆

徳川家康の人質時代からずっと忠義を尽くし続けた数正。出奔の理由は今なお諸説あって決着を見ませんが、晩節を汚してしまった感は否めません。

なお「室は内藤右京進某が女」とあり、彼女が劇中に登場する鍋(木村多江)です。

ちなみに三人の息子たちは徳川家へ帰参する者、豊臣家に仕え続ける者と分かれたものの、いずれも慶長18年(1613年)の大久保長安事件で改易されてしまいました。

長男・石川康長(玄蕃頭)
⇒父の死後、家督を継ぐ。秀吉の死後は家康に帰参。関ヶ原合戦では徳川秀忠(森崎ウィン)に従う。

次男・石川康勝(肥後守)
⇒父の死後、遺領の内15,000石を相続。秀吉の死後は遺児・豊臣秀頼(作間龍斗)に仕える。

三男・石川半三郎(紀伊守)
⇒父の死後、遺領の内5,000石を相続。秀吉の死後は家康に帰参。

数正の息子たちを受け入れる家康の心中はいかばかりだったでしょうか。

「あの時は軍事機密が筒抜けになって困ったけど、まぁヤツにはヤツなりに思うところがあったのだろう。その息子たちまで怨むことはないか」

大河ドラマ「どうする家康」には次男の勝千代(康勝)のみ登場しますが、今後も活躍の機会はあるのでしょうか。もしかしたら、秀頼の側近として姿を見せてくれるかも知れませんね。

果たして石川数正はどのような最期を迎えるのか、それともこのままフェイドアウトしてしまうのか、今後も注目していきましょう!

※参考文献:

『寛政重脩諸家譜 第一輯』国立国会図書館デジタルコレクション 高柳光壽ら『戦国人名辞典』吉川弘文館、1963年2月 本郷和人『徳川家康という人』河出新書、2022年10月

トップ画像(左):NHK大河ドラマ「どうする家康」公式HPより

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