デビュー51周年!吉幾三インタビュー「『俺はぜったい!プレスリー』は即興で生まれた」「最初は“吉幾造”だった」驚きの新事実
今年、デビュー51年目を迎えた吉幾三。ギター1本抱えて青森から上京し、5年後にアイドル歌手としてデビューしたものの、泣かず飛ばず。芸名を変え、『俺はぜったい!プレスリー』で最初のブレイクを果たしたときには、すでに結婚して子どももいた。そこから『俺ら東京さ行ぐだ』『雪國』と国民的大ヒット曲を生み出すまでには、さらに長い歳月を要した。そんな波乱の芸能人生を熱く語ってもらった!
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東京に出てきたのは、スターになりたい、歌をたくさんの人に聴いてもらいたいというより、お金を稼ぐには歌手になるしかないと思っていたからです。デビュー前には板前見習い、パチンコ店の店員、トラックの助手と、いろいろやりましたが、なんとかデビューできました。
“山岡英二”という芸名で、デビュー曲はヤンマーディーゼルのCMソング『恋人は君ひとり』。今、思うと、宇宙服みたいな衣装着せられちゃってね。本人としては、まったく自覚がなかったんだけど、一応、これでもアイドル歌手として売り出されたみたいです(笑)。
ーー吉幾三の歌手人生は、ここからが本当の勝負だった。4年後に自ら作詞・作曲を手がけた『俺はぜったい!プレスリー』で、起死回生の大ヒットを飛ばすのだ。この頃には、すでに結婚し、長女も生まれていた。
スナックで雇われマスターのバイトをしていたとき、お客さんに「プレスリーが死んだ」と聞き、「プレシリーだか、プレスリーだか知んないけど、俺だって田舎じゃ人気者だったんだ」と、即興で歌ったんです。これが元になっています。
■数字の「三」のほうが縁起がいい!
曲をリリースするにあたっては、再デビューだというんで、名前を変えました。名づけ親は、当時のクラウンレコード(現・日本クラウン)の制作部長で、後に社長になる斎藤昇さん。
最初は「吉幾造」だったのが、数字の「三」のほうが縁起もいいだろうと「吉幾三」に。よく覚えやすくて、いい名前だと言われるんですが、今でも、どこかで「よし! 行くぞ!」なんて声が聞こえると、つい振り向いちゃう(笑)。
名前は公表しても、顔は半年間出さない。それが、この曲の宣伝戦略でした。俺が歌っているのを知っていたのは斎藤さんと、当時所属していた事務所の社長とレコーディングスタッフ数名くらい。だから周囲の反応を見るのが面白かった。
結局、正体を明かしたのはクラウン社内で行われたヒット賞の受章式。美川憲一さんや瀬川瑛子さんら、受賞者が座る椅子席が1つだけ空いていて、「吉幾三」の名前が呼ばれ、初めて壇上に上がったわけです。
以来、それまで「山岡」と呼び捨てだった人が、急に「吉さん」と呼んだりね。態度がガラッと変わる人が、けっこういました。
ーー大金を手にした吉だが、借金を返済すると、お金はゼロ。しかし、「一発屋」では終わらなかった。
■「千昌夫さんは俺のことをベタボメ」
曲が売れている頃、千昌夫さんから、「ぜひ会いたい」という連絡があったんですよ。でも、お互い忙しくて、なかなか会う機会がなかった。ようやくスケジュールの都合がついて、六本木のバーで会えたんです。そしたら、千さんは俺のことをベタボメ。
「最高だね、君は。俺も田舎のことを売りにして、いろいろ話してきたけど、君にはかなわない。君の頭の中には数十億円、数百億円の才能が眠っているよ」
最初は、この人、何を言ってるんだろう、頭がおかしいんじゃないかと思いましたよ(笑)。でも、これをきっかけに千さんと酒を飲む機会が増え、自宅に招かれるようにもなりました。
そんなある日、もし自分で作った曲があれば歌ってくれと言われたんです。
俺が最初に歌ったのは『おど』。自分のオヤジのことを歌った曲なんだけど、千さんは聴きながらポロポロ涙を流してる。「どうしたんですか」と聞くと、
「つい、オヤジのことを思い出しちゃったんだよ。俺のオヤジは小さい頃に出稼ぎに行って、事故で亡くなったんだ……」
次に歌ったのが『離村者』という曲。そしたら、千さん、今度は腹を抱えて大笑いでした。
「これ、いいよ。おまえ、この曲、すぐに出せ!」
しかし、その頃の俺はレコードを出したくても、レコーディングに必要なお金は、どこにもない。だから、千さんに制作費を出してほしいと頼みました。
「分かった。全部、出してやるよ。代わりに『おど』は俺に歌わせろ」
現在発売中の『週刊大衆』9月25・10月2日号では大ヒットソング『俺ら東京さ行ぐだ』の裏話も公開!