親の仇・石田三成が目の前に…あなたならどうする?鳥居成次(元忠三男)かく語りき【どうする家康】 (3/3ページ)
ですから身柄は、より相応の方が預かるべきかと」
「相分かった。治部めの身柄は、本多佐渡(正信)に預けよう」
かくして三成の身柄は本多正信に引き渡され、天下の人々は久五郎の潔い態度を賞賛したということです。
終わりに……慶長五年九月関原の役に扈従し首級を得たり。御勝利ののち、父が仇なれば其憤りを慰めよとて石田三成をめしあづけらる。成次厚くこれを饗し、衣服をあたへて慇懃を盡しいさゝか恨るの體なし。三成涙を流してその厚意を感ず。次の日御前に出て台慮の辱を拝し、三成父が讐なりといへども、もとより元忠は君がために一命をたてまつりしなれば、敢て三成が所為といふべからず。依てこれに対してわたくしの恨あるべきやうなし。天下の御敵なれば他人にめしあづけられたまはるべきよしを言上せしかば、御感ありて即本多佐渡守正信にめしあづけらる……
※『寛政重脩諸家譜』巻第五百六十一 平氏(支流)鳥居
以上、関ヶ原合戦に敗れた石田三成を手厚くもてなした鳥居成次のエピソードを紹介してきました。
たとえどれほど憎い相手でも、私怨ではなく天下公益の観点から公正に取り扱う態度は、まさしく主君に対する忠義。さすがは三河武士の鑑・鳥居元忠の息子ですね。
その後も大坂の陣で28の首級を上げたり、徳川忠長(秀忠の子、家康の孫)を補佐したりと文武に活躍した鳥居成次。
彼ら武骨な忠義者たちによって家康の天下取りは成し遂げられ、徳川の世は2世紀半の永きにわたり護られたのでした。
※参考文献:
『寛政重脩諸家譜 第三輯』国立国会図書館デジタルコレクション日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan