親の仇・石田三成が目の前に…あなたならどうする?鳥居成次(元忠三男)かく語りき【どうする家康】 (2/3ページ)
通称は久五郎(きゅうごろう)、後に従五位下・土佐守と叙せられました。
時は慶長5年(1600年)9月、天下分け目の関ヶ原合戦では家康の下で奮戦して首級を上げたものの、伏見城を守備していた父・元忠は討死してしまいます。
さて、勝利の後に敵の総大将である石田三成(治部)が捕らわれました。さて、処分が決まるまでの間、誰に身柄を預けようか……そうだ。
白羽の矢が立ったのは鳥居成次。久五郎は父を殺されているし、怨みを晴らしたいに違いなかろう。家康はさっそく三成を預けたのでした。
「久五郎よ。そなたに石田治部の身柄を預ける。殺しさえしなければ、何をしてもよいからな」
「御意」
さぁ、思う存分に怨みを晴らすがよいぞ……久五郎はどんな手を使って治部めをなぶり上げるのか楽しみだ……。
果たして家康がワクワクしていたかはともかく、その数日後。
「何、久五郎が治部を手厚くもてなしていると?」
親の仇をなぶりものにするどころか、手厚くもてなすとは一体いかなる了見であろうか。
家康が訝しんでいた翌日、久五郎が謁見に参上してきました。
「久五郎よ。そなたは石田治部めを手厚くもてなしていると聞いたが、一体いかなる了見か?」
親の仇を前にして(命令だから自分の手では討てないにせよ)、少しでも怨みを晴らすべく何かしらをしたかろうに、もてなすなどと仇に同情するような振る舞いは親不孝ではないか。
もっと治部めをなぶり倒してくれなきゃつまんないじゃないか……なんてことは微塵も思っていない家康は、少し避難がましく問いかけました。
それに対して、久五郎が答えて言うには。
「確かに、こたび父は治部らと戦いました。しかし父はあくまで君命をまっとうしたのであり、また生き死には武門の常なれば、治部個人に怨みはありません」
「ほう」そういう考えもあるのか。家康の気づきを前に、久五郎は続けます。
「むしろ石田治部めは天下の仇とも言うべき大罪人。私(わたくし)の小さな怨みを問うべきではございませぬ。