【日本一の兵】戦国乱世の終焉を駆け抜けた真田信繁(日向亘)の生涯をたどる【どうする家康】

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【日本一の兵】戦国乱世の終焉を駆け抜けた真田信繁(日向亘)の生涯をたどる【どうする家康】

乱世の終わりとともに散った弟

真田信繁 さなだ・のぶしげ
[日向亘 ひゅうがわたる]

真田昌幸の次男。父から不屈の精神を受け継ぎ、類いまれなる知略、武力を駆使して、勇敢にも小国・真田の「義」を守り続ける。上田合戦、大坂の陣と最後まで家康の天下取りに抵抗する。

※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト(登場人物)より

豊臣秀吉の死後、斜陽の豊臣家を支えて徳川家康の野望を全力で阻止。豊臣秀頼を守り最期まで闘い抜いた真田信繁は「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と謳われました。

判官びいきと相まって日本史上でも指折りの人気者として、多くの歴史ファンから愛されています。真田幸村という名前でも知られますね。

今回はそんな真田信繁の生涯をたどり、NHK大河ドラマ「どうする家康」の予習をしていきましょう!

真田幸村とは名乗らなかったが……。

落合芳幾「太平記英勇傳 花田左衛門尉滋野雪村(真田幸村)」

幸村

初信繁 源次郎 左衛門佐 従五位下 母は上におなじ。

慶長五年上杉景勝御征代の時したがひたてまつり、下野国小山にいたる。このとき石田三成にくみして父昌幸とともに上田城にこもり、三成が援兵をなす。これによりて死刑に処せらるべきのところ、兄信之助命のことをこひまうすにより、その罪を宥められて父とともに高野山に蟄居せしめらる。のち豊臣秀頼のまねきにしたがひ、大坂城にこもり、しばしば力戦し、元和元年五月七日のたたかひに討死す。

※『寛政重脩諸家譜』巻第六百五十五 滋野氏 真田

【意訳】真田幸村。はじめの名前は信繁、通称は源次郎。官位は左衛門佐(さゑもんのすけ)/従者五位下。母は兄・真田信幸(信之)と同じ正室・菊亭晴季の娘。

慶長5年(1600年)家康が上杉景勝を討伐する際につき従うも、父の真田昌幸と共に離反して信州上田城に立て籠もり、石田三成に与する。

石田三成の敗死後、真田父子も処刑されるべきところ、家康に従っていた兄・信幸の助命嘆願によって高野山に幽閉された。

のち慶長19年(1614年)に家康が豊臣討伐に乗り出すと、秀頼を助けるため高野山を脱出して大坂城へ駆け込む。

持ち前の武勇と知略をいかんなく発揮して徳川の大軍を翻弄するも、最期は慶長20年(元和元年)5月7日の決戦で討死してしまう。

……ごくざっくり、こんな生涯になります。これを読むと「へぇ。最初は信繁で、後に幸村と名乗ったのか」と思いますが、実は生前の彼が自分で幸村と名乗ったことはありませんでした。

※信繁が発給した文書は20点確認されていますが、いずれも(偽名や変名を含め)幸村とは書いていません。余談ながら花押(肉筆サイン。判子の代わりに書かれた)は9回変えており、謀略を得意とする真田家らしい警戒心が偲ばれます。

確認できる限り、幸村の初出は江戸時代初期に書かれた軍記物語『難波戦記』。幸の字は真田家の通字(一族の証である文字。父・昌幸や兄・信幸、祖父の幸隆らが使っている)、村は徳川家に代々仇なしたと伝説が残る妖刀・村正からとっているそうです。

しかし幸村という名前があまりに広がってしまったため、先に挙げた『寛政重脩諸家譜』や何なら真田家の子孫(信州松代藩)自体が系図に「幸村」と書くほどでした。

これに対して江戸幕府当局が問い合わせたところ、真田家は「信繁が本名で、大坂城に入った際に幸村と名乗った」との旨を答えています。伝説が既成事実となってしまったのですね。

戦国乱世の終焉を駆け抜けた真田信繁の生涯

戦国乱世の終焉を、全力で駆け抜けた真田信繁(イメージ)

さて、そろそろ本題に入りましょう。

真田信繁は永禄10年(1567年)、武藤喜兵衛(後の真田昌幸)の次男として誕生します(誕生年については元亀元・1570年説もあるようです)。

天正3年(1575年)の長篠合戦で伯父の真田信綱・真田昌輝が討死したため、父が真田家を継承。上野国岩櫃城(群馬県東吾妻町)城代として、越後の上杉を警戒しました。

上野国は武田・上杉・北条が三つ巴に入り組む抗争地域で、常に気の抜けない危険地域。かつて「信玄の小脇指(懐刀)」と謳われた昌幸でなければ守り抜けなかったでしょう。

天正10年(1582年)3月に主君の武田勝頼が滅亡すると、真田家は織田信長に臣従して所領を安堵されました。信繁は人質として、新たに関東管領となった織田家臣・滝川一益に引き渡されます。

しかし同年6月に起きた本能寺の変で信長が横死を遂げると旧武田領は制御不能の混乱に陥りました。この「天正壬午の乱」に乗じて信繁は真田家に返還されたのです。

真田家は新たに上杉景勝へ臣従し、信繁は人質として越後国へ送られました。この間、父は所領争いで徳川家康の軍勢と一戦を交え、これを見事に撃退しています(天正13・1585年、第一次上田合戦)。

後に織田政権を乗っ取った羽柴秀吉が台頭すると、今度はそちらへの人質として大坂に送られました。まったく忙しいったらありゃしません。

大坂で信繁は大谷吉継の娘(竹林院)を正室に迎え、四女二男(阿梅、あぐり、真田大助幸昌、真田大八守信、阿菖蒲、おかね)を授かりました。

天正18年(1590年)に秀吉が北条討伐の兵を挙げた際には父や兄と別行動で石田三成の下に従い、忍城攻めに参戦したと伝わっています。

天正20年(1592年。文禄元年)から文禄2年(1593年)にかけて行われた秀吉の第一次朝鮮出兵(文禄の役)では、信繁は父・兄と共に兵700を率いて肥前名護屋城に詰めたそうです。

早く出陣したいと血気に逸ったのか、それとも先の見えない戦いに、様子をうかがっていたのでしょうか。

文禄3年(1594年)11月2日、信繁は従五位下・左衛門佐に叙せられ、秀吉から豊臣の姓を与えられました。よほど気に入られ、将来を見込まれていたことが分かりますね。

信繁は秀吉の馬廻衆としてそば近く仕え、父たちとは別に19,000石の知行を与えられていたそうです。

やがて秀吉が世を去ると家康が天下取りの野心をむき出しにし始めました。かねがね徳川と争っていた真田昌幸・信繁は豊臣を守るため石田三成に与し、兄の真田信之は徳川家臣・本多忠勝の娘(小松殿、稲姫)を娶っていたため家康への臣従を貫きます。

家康か三成のどちらにつくか……父子三人が犬伏で話し合ったことから、今日「犬伏の別れ」として伝わっています。

どちらが勝っても真田家が存続できるように計らったとも言われるものの、単にそれぞれの利害が衝突した結果でしょう。

こうして反・徳川姿勢を明確にした真田昌幸・信繁は信州上田城に立て籠もり、関ヶ原の決戦へ向かう徳川秀忠の大軍を翻弄し、みごと足止め(第二次上田合戦)。その結果、秀忠は決戦に間に合わないという大失態を犯してしまうのでした。

しかし石田三成率いる西軍は敗北し、西軍に与した真田昌幸・信繁は処刑と決まったのです。すると信之とその舅である本多忠勝が助命をとりなし、高野山への流罪に止められたのです。

ひとまず命は助かったものの、極貧の困窮生活を強いられた二人。後に高野山から九度山へ移り、やれ生活物資が足りないだの何だの、信之へ支援をせびり倒す日々が続きました。

そうこうしている内に慶長16年(1611年)に父・昌幸が病没。信繁は翌年に出家し、好白斎と改名します。

このまま父の菩提を弔って終わるかと思ったらさにあらず、やがて慶長19年(1614年)に九度山を脱出、大坂城へ駆け込んだのです。

攻め寄せる家康の軍勢を前に、いざ籠城戦。ここで信繁は大坂城の最弱点と思われる個所に出丸を築いてそこを守備。敵味方から「真田丸」と呼ばれました。大河ドラマのタイトルにもなっていますね。

ここで信繁は徳川の大軍を相手に善戦を演じましたが、豊臣家当局(秀頼、淀殿ら)が家康と講和してしまい、その条件として大坂城の堀を埋め立てられてしまいました。真田丸も破却されてしまったのです。

そして慶長20年(1615年)、丸裸にされた大坂城を出て最後の決戦を挑み、あえなく討死してしまったのでした。

信繁の首級を獲ったのは松平忠直(家康の次男・結城秀康の長男)家臣・西尾宗次。くたびれ切っていた信繁を本人と知らず、一騎討の末に討ち取ったと言います。

『滋野世記』によると、信繁の首級を見た徳川方の諸将は少しでも武勲にあやかるため、競い合って遺髪をむしり取って御守にしたとか。

敵味方を問わず、その死を惜しまれた真田信繁。判官びいきから逃亡説も多く存在し、今でも日本各地に信繁の墓が祀られています。

終わりに

大坂夏の陣で最期の突撃を敢行、あと一歩のところまで家康を追い詰めた……という伝承も残る幸村(信繁)。歌川貞信「日本略史図 真田幸村・徳川家康」

以上、真田幸村こと真田信繁の生涯を駆け足でたどって来ました。この他にもエピソードに事欠かない信繁ですが、果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」ではどのような信繁が描かれるのでしょうか。

日向亘の熱演に、今から視聴者の期待が集まっているようです。

※参考文献:

小林計一郎 編『決定版 真田幸村と佐奈田一族のすべて』中経出版、2015年7月 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』角川書店、2015年10月 丸島和洋『真田四代と信繁』平凡社新書、2015年11月

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