どうか殿下の陣羽織を!徳川家康が豊臣秀吉にねだった理由とは【どうする家康】
時は天正14年(1586年)10月27日、我らが神の君こと徳川家康はついに関白・豊臣秀吉の軍門に降りました。
この時、家康は秀吉に対して陣羽織を要求。陣羽織は戦場で鎧の上から着用する大切な装備であり、また秀吉の愛用品とあって秀吉は難色を示します。
それが分からぬ家康でもないでしょうに、なぜ秀吉にこんな要求をしたのでしょうか。
今回は江戸幕府の公式記録である『徳川実紀(東照宮御実紀、同附録)』をひもといてみたいと思います。
豊臣秀長・浅野長政の入れ知恵……御上洛の折大和大納言秀長朝の御膳たてまつるとて迎へたてまつりしとき。秀吉も俄に其席に臨まる。白き陣羽織の紅梅の裏つけ。襟と袖には赤地に唐草の繍したるを着したり。秀吉がたゝれし後にて秀長と浅野弾正長政とひそかに申上しは。彼陣羽織を御所望あるべしと申。……
※『東照宮御実紀附録』巻五「秀吉之権略」
当日の朝、家康は豊臣秀長の邸宅で食事をとりました。その席には秀吉と秀長、そして浅野長政も同席しています。
「……さて、わしは席を外すぞ。徳川殿は、もそっとゆるりとなされ」
秀吉が退出すると、秀長と長政が家康に話しかけました。
「徳川殿、殿下の陣羽織をご覧になりましたか」
「うむ。殿下にふさわしく立派なものであったな」
陣羽織は白を基調に、襟と肩口を赤い唐草の刺繍で引き立て、裏地には紅梅をあしらう趣向であつらえられた見事なものです。
「今日の謁見では、殿下にかの陣羽織を御所望なさいませ」
それを聞いて、家康は俄かに機嫌を損ねてしまいます。
……君某今までかゝる事人にいひし事なしといなみ給へば。二人これは殿下物具の上に着せらる陣羽織なれば。こたび御和議有しからはあながちに御所望ありて。この後殿下に御鎧は着せ進らすまじと宣へば。関白もいかばかり喜悦ならんと申す。 君もうなづかせ給ひ。秀長の饗席既に終り秀吉と共に坂城(※原文ママ。大坂城か)に上らせらる。……
※『東照宮御実紀附録』巻五「秀吉之権略」
「何を申すか。いかに素晴らしいものであろうと、わしはこれまで他人様の持ち物を羨んだり、せがんだりしたことはない!」
そんなに卑しい人間だと思っているのか……家康が怒るのも無理はありません。しかしそういう事ではなく、二人には考えがあったのです。
「徳川殿、よろしいか。陣羽織とは戦の折に物具(もののぐ。鎧)の上から着るもの。こたび和議を結ばれたからには『今後、殿下に鎧を着させるようなこと(戦に手をわずらわせる)のないよう、しっかりとお守りします』と申し上げれば、関白殿下も大変お悦びになるでしょう」
なるほど、そういう演出であったか。話を聞いて家康も納得し、謁見のため大坂城へ向かったのでした。
秀吉自ら、家康に陣羽織を着せてやる……このとき諸大名皆並居て謁見す。秀吉いはく。毛利浮田をはじめ承られ候へ。われ母に早く逢度思へば。 徳川殿を明日本国に還すなりとて。又 君にむかひ。今日は殊に寒し。小袖を重ねられよ。城中にて一ぷく進らせ馬の餞せん。御肩衣を脱し給へといへば。秀長長政御側によりきて脱す。君そのとき殿下の召せられし御羽織を某にたまはらんと宣へば。秀吉これはわが陣羽織なり。進らすることかなはじといふ。 君御陣羽織とうけたまはるからは。猶更拝受を願ふなり。 家康かくてあらんには。重ねて殿下に御物具着せ進らすまじと宣へば。秀吉大によろこばれ。さらばまいらせんとてみづから脱て着せ進らせ。諸大名にむかひ。唯今 家康の秀吉に物具させじといはれし一言をおのおの聞れしや。秀吉はよき妹婿を取たる果報ものよといはる。この日諸大名の陪従多しとて秀吉奉行人を咎れば。かねて少く連候へと申付しにと申せば。秀吉うち笑ひ。 徳川殿御聞候へ。このところよりわづか清水へゆくにも。人数の三万か二万と申されしとぞ。……
※『東照宮御実紀附録』巻五「秀吉之権略」
さて、大坂城では各地から参集した諸大名が所狭しとひしめいています。秀吉は彼らに言いました。
「毛利、宇喜多はじめ皆の者、よく聞くがよい。余は徳川殿の元へ送った母上に早く会いたい。なので徳川殿を明日本国へお帰しする」
また家康に対しては
「今日は寒いから小袖を重ね着されよ。ちょっと一服したら、一緒に馬でも駆ろうではないか」
そして秀長と長政に命じて肩衣(かたぎぬ。袖のない上衣)を脱がせたときに、家康が陣羽織を所望しました。
「嫌じゃ。これはわしがお気に入りの陣羽織。今より着るのだから、進(まい)らせることかなわんぞ」
「殿下の陣羽織なればこそ、なおさら賜りとう存じます。今後、殿下が陣羽織ひいては御物具を召されるようなことのないよう、奉公いたす所存にござる」
これを聞いた秀吉は大喜び、自ら陣羽織を家康に着せてやったのでした。
「皆の者、聞いたか。徳川殿は余に陣羽織を着せぬと言うてくれた。よう出来た妹婿を持って、余はまこと果報者じゃ」
上機嫌で高笑いの秀吉。しかし何を思ったか、にわかに奉行人を呼びつけて叱りつけます。
「おい。人が多すぎじゃ。謁見の大広間に入りきっておらず、見苦しいではないか」
「申し訳ございませぬ。各家に対して最少人数で参上するよう申しつけたのですが……」
奉行人の報告を受けて秀吉はわざとらしく大笑い。本当に怒っていた訳ではなく、単なるパフォーマンスでした。
「いやぁ徳川殿。わしの下には人が集まりすぎて困る。最近なんか、ここからちょっと清水(きよみず)へ遊びに参るのでも、家来が二万とも三万ともぞろぞろついて来てしまうのじゃ」
「は。それは偏に殿下の御人徳ゆえにございましょう。それがしもまた、殿下を慕う一人にございまする」
「嬉しいことを言いおるわい……」
とまぁ、そんな具合に無事謁見は終わり、家康も無事に帰国したということです。
翌年、駿府城にて……次の年駿城にて井伊直政。本多正信に。去年秀吉が許にて我に陣羽織を所望せしめしは。 家康が一言にて四国中国の者を鎮服せしめん為なり。次に近所へゆくにも二万か三万かといひしは。兵威もて我をおどさんとてなり。例の秀吉が権詐よと仰られしとぞ。はたして其事十日を過ずして。四国中国はさらなり。しらぬひや筑紫のはてまでもいひ傳へて。関白の兵威の盛なるを称しけり。又あるときの仰に。わが上京せしとき秀吉ひそかに旅館に来り我にむかひ三度まで拝礼す。その事しりし秀長。浅野長政。加々爪某。茶屋四郎次郎四人には誓紙させ他言をとゞめしときく。かく諸大名を出し抜て事をはかる人には。中々力押にはなりながたし。よくよく時節を待て工夫あるべしと仰せありしとぞ。(續武家閑談。)
※『東照宮御実紀附録』巻五「秀吉之権略」
「……という事があったのじゃ」
明けて天正15年(1587年)、家康は駿府城で井伊直政と本多正信に話します。
「はぁ」「左様にございましたか」
「去年のパフォーマンスは、わしが従えば四国や中国の連中も殿下に従わざるを得ないと思わせるためじゃ。次の近所へ行くにも2~3万とかいうのは、わしに対する脅しじゃろうな」
「まぁ」「そうでしょうね」
相変わらず策略に長けた猿よ……果たしてあの後、四国中国はもちろん、九州にいたるまで秀吉の武威は知れ渡ったのでした。
「しかし、あんなに虚勢を張っておった猿めが、お忍びで根回しに来たのは愉快だったな」
家康が上洛した日の夜、秀吉がその宿所を訪ねてきて三度まで拝礼したと言います。
回想秀吉「徳川殿、どうか謁見の折は本心からでなくてもいいから、わしに臣従して下され……」
回想家康「わかっております。ご安心下され、元よりそのつもりで来ておりますから……」
回想秀吉「どうか、どうか……」
そのことを知っているのは秀長と長政、そして加々爪ナニガシ(加賀爪政尚か)そして茶屋四郎次郎とのこと。
「四人とも口外せぬ旨の誓紙を書かされておったな……」
「いや、だとしたらそれを我らに洩らしちゃダメでしょう」
「ともかくあの猿めは食えぬ男よ。なかなか力押しでは行かぬから、よくよく時節を待たねばならんのぅ」
かくして秀吉に臣従した家康。その後、天下が転がり込んで来るまでには、もう少し歳月を要するのでした。
終わりに以上、家康が秀吉に陣羽織をねだったエピソードを紹介してきました。家康自身の発案だとばかり思っていたら、実は豊臣秀長と浅野長政からのアドバイスだったのですね。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、この名場面をどのように描いてくれるのでしょうか。今から楽しみにしています!
※参考文献:
『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan