鎌倉時代のUMA(未確認動物)!?「9本足の馬」を献上された源頼朝のリアクションは【鎌倉殿の13人 外伝】

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鎌倉時代のUMA(未確認動物)!?「9本足の馬」を献上された源頼朝のリアクションは【鎌倉殿の13人 外伝】

古今東西、変わった動物というのは話題になりやすいもので、歴史をひもとくとしばしば不思議な生き物(Unidentified Mysterious Animal、未確認動物)が登場します。

今回は鎌倉時代、幕府の公式記録であった『吾妻鏡』より9本も足の生えていた馬を紹介。時は建久4年(1193年)7月24日のことでした。

まことに珍なれども、愛するに足らず

廿四日 戊子 横山権守時広、一疋の異馬を引きて、営中に参ず。将軍これを覧るに、その足九(前足五、後足四。)あり。これ所領淡路国国分寺の辺に出来するの由、去ぬる五月の比、告げあるによって、怪しみながら召し寄するの旨言上す。(伊澤)左近将監家景に仰せて、陸奥国外浜に放ち遣はさるべしと云々。周室の三十二蹄は八疋の合するところなり。本朝一疋の九足、まことに珍と称すべきか。しかれども房星の精、これを愛するに足らず。今これを千里に却けらる。瀧挑もっとも営となすべきものをや。

※『吾妻鏡』第十三 建久4年(1193年)7月24日条

「……ほう、これが噂の馬か」

源頼朝が、御家人の横山時広より献上されたのは、1頭の珍しい馬。なんと足が9本も生えているというのです。

九本足の馬(想像図)一体どうやって走るのだろう。

数えてみると前足が5本、後ろ足が4本とのことで、各足は胴体からどのように生え、どうやって歩いていたのでしょうか。

「それがしの所領である淡路国の国分寺あたりで、5月ごろに発見いたしました。珍しいからきっと何かの瑞兆(めでたい兆し)かも知れないと思い、こたび捕らえて献上した次第にございます」

ふーん……頼朝は馬をしげしげと眺めました。前後の足が煩わしくバタバタ動いて、自分の足につまづいてしまいそうです。

「……左近将監(伊澤家景)はおるか?」

「は、こちらに」

「この馬を、陸奥国外浜に連れて行き、解き放ってくるがよい」

せっかく淡路国から遠路はるばる献上されたのに、逃がしてしまうなんてもったいない。訝しがる時広に、頼朝は言いました。

「確かに、かつて周王朝(中国大陸の古代国家)には足の32本生えた馬が献上されたそうな」

「それなら、足の本数が少ないこたびの馬も、受け入れてもよいのでは?」

「しかしそれは8頭の馬が合わさったものであり、1頭あたり4本足×8頭=32本でごく自然な数であった」

いや、その理屈もどうかとは思うのですが……。

「一方でこたびの馬は、1頭で9本も足を生やしており、明らかに異常である」

「ならば、唯一無二の吉兆やも知れませぬ」

食い下がる時広に、頼朝は言いました。

九本足の馬を遠ざける頼朝(イメージ)

「星を占わせたところ、房星(そえぼし)の相性が悪いとのこと。そのような馬を手元に置き続ければ遠からず不幸が起きよう」

こうして9本足の馬は問答無用で鎌倉を追放されてしまうのでした。

馬にしてみれば、故郷の淡路国へ帰してくれればいいものを、とんだ迷惑以外の何物でもありませんね。

「あーあ、瀧挑もっとも営となすべきではなかろうか(不吉も一周回って逆に幸運の兆しかも知れないじゃないか)」

時広は残念がったものの、馬がその後どうなったのか、誰も知らないということです。

終わりに

もしかして、頼朝が落馬して死んだ遠因は……(妄想)

以上、『吾妻鏡』より源頼朝に献上された9本脚の馬エピソードを紹介してきました。実際のところ、この馬は単なる奇形だったのでしょうか。

あるいは、何か天意を知らしめるために遣わされたものかもしれませんね。もしそうなら、天がこの馬をして何を伝えたかったのでしょうか。史料からそれに当たりそうな出来事を調べ、思いを馳せるのも一興です。

他にもまた変わった生き物のエピソードを発見したら、改めて紹介したいと思います。

※参考文献:

五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡6富士の巻狩り』吉川弘文館、2009年6月

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