光源氏のモデル?その名もまんま源光。華やかな人生から転落の末路をたどる【光る君へ 前史】 (2/3ページ)

Japaaan

美作守・相模権守・讃岐権守など地方官を歴任し、都に戻ってからも播磨権守を兼帯したといいます。

元慶8年(884年)に第58代・光孝天皇が即位すると参議に叙任、最高級貴族たる公卿に列しました。第59代・宇多天皇の御代には大納言にまで昇進(昌泰2・899年)します。

やがて昌泰4年(901年)になると、藤原時平らと結託して菅原道真を失脚させて大宰府へと左遷(名目上は栄転だが、都から離れるため不利になる)させてしまいました。

まんまと企みに成功した源光は道真の後釜として正三位・右大臣に叙せられ、住んでいた館の地名から西三条右大臣と呼ばれたそうです。

延喜9年(909年)に共謀者であった左大臣の藤原時平がなくなると、政権中枢を実質的に支配して左近衛大将を兼任、翌延喜10年(910年)には正二位まで昇りました。

政治も軍事も最高クラスの権力をつかみとり、もはや何も恐れることのなくなった源光。

しかし延喜13年(913年)3月12日、鷹狩りを楽しんでいた時に泥沼へ転落。そのまま沈んでしまったのでした。どれほど捜索しても遺体は発見できず、人々は道真の祟りに違いないと噂したということです。享年69歳。

終わりに

『天神縁起絵巻』より、道真の祟りを受ける者たち。

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