光源氏のモデル?その名もまんま源光。華やかな人生から転落の末路をたどる【光る君へ 前史】

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光源氏のモデル?その名もまんま源光。華やかな人生から転落の末路をたどる【光る君へ 前史】

光り輝く美しさから、光る君と愛された光源氏こと源光(みなもとの ひかる)。彼は亡き母の面影を追い求め、個性豊かな女性たちと華麗な恋愛絵巻を繰り広げることになります。

そんな平安文学の最高峰『源氏物語』の主人公について、そのモデルが誰なのか、昔から議論のネタにされてきました。

敦慶(あつよし)親王?嵯峨天皇?藤原伊周(これちか)?藤原実方(さねかた)?藤原道長?源融(とおる)?……などなど、いまだ定説を見ていないようです。他にも在原業平や菅原道真などのエピソードが盛り込まれているとか。

今回はそんな光源氏のモデルの一人であり、名前もそのまんま源光を紹介。名前がイコールならこの人で決まりじゃないの?とも思いますが、彼よりも境遇などが似ている人も多いため、いまだ決着がついていないようです。

果たしてリアルな源光は、どのような生涯をおくったのでしょうか?

菅原道真の祟り?で非業の最期

源光は常和12年(845年)6月2日、第54代・仁明天皇の皇子として誕生しました。母親は百済王豊俊女(くだらのこにきし ほうしゅんのむすめ)と言われます。

皇族から臣下となった源光(イメージ)

多くの兄弟たちと共に臣籍降下、つまり皇族から臣下の身分に下されて源の姓(かばね)を賜わり、第56代・清和天皇から第60代・醍醐天皇まで歴代天皇に仕えました。

貞観2年(860年)に16歳で従四位上に叙せられて以来、順調に昇進。美作守・相模権守・讃岐権守など地方官を歴任し、都に戻ってからも播磨権守を兼帯したといいます。

元慶8年(884年)に第58代・光孝天皇が即位すると参議に叙任、最高級貴族たる公卿に列しました。第59代・宇多天皇の御代には大納言にまで昇進(昌泰2・899年)します。

やがて昌泰4年(901年)になると、藤原時平らと結託して菅原道真を失脚させて大宰府へと左遷(名目上は栄転だが、都から離れるため不利になる)させてしまいました。

まんまと企みに成功した源光は道真の後釜として正三位・右大臣に叙せられ、住んでいた館の地名から西三条右大臣と呼ばれたそうです。

延喜9年(909年)に共謀者であった左大臣の藤原時平がなくなると、政権中枢を実質的に支配して左近衛大将を兼任、翌延喜10年(910年)には正二位まで昇りました。

政治も軍事も最高クラスの権力をつかみとり、もはや何も恐れることのなくなった源光。

しかし延喜13年(913年)3月12日、鷹狩りを楽しんでいた時に泥沼へ転落。そのまま沈んでしまったのでした。どれほど捜索しても遺体は発見できず、人々は道真の祟りに違いないと噂したということです。享年69歳。

終わりに

『天神縁起絵巻』より、道真の祟りを受ける者たち。

以上、光源氏のモデルの一人と言われる源光の生涯をたどってきました。『源氏物語』の光源氏と似ている部分もあれば、そうでない部分もありますね。

皇子として生まれながら臣籍降下し、何不自由なく栄華を極めながら、最期は道真の祟りによって非業の死を遂げてしまいました。ちょっと後味が悪いですね。

ちなみに、源光の死後間もない3月18日に、最高位である正一位が追贈されました。死んでからもらってもあまり意味がないかも知れませんが、せめてもの慰めになったでしょうか。

また、後任の右大臣には道真と親しかった藤原忠平が就任したということです。

まひろ(紫式部)とは生きた年代が違うため、NHK大河ドラマ「光る君へ」に登場することはありません。それでも彼女の描いた光源氏に、源光の面影を感じられるかも知れませんね。

※参考文献:

武田祐吉ら訳『読み下し 日本三代実録 下巻 清和天皇』戎光祥出版、2009年9月 武田祐吉ら訳『読み下し 日本三代実録 下巻 陽成天皇 光孝天皇』戎光祥出版、2009年9月

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