「そなたは、江戸」豊臣秀吉に関東移封を命じられた神の君・徳川家康、実際の反応は?【どうする家康】

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「そなたは、江戸」豊臣秀吉に関東移封を命じられた神の君・徳川家康、実際の反応は?【どうする家康】

時は天正18年(1590年)7月、関東に覇を唱える小田原北条氏(北条氏政・氏直父子)を滅ぼし、天下一統をなしとげた豊臣秀吉。

この関東に、かねて目の上のたんこぶであった徳川家康を追いやろうと画策、ただちに江戸行きを命じたのでした。

この無茶ぶりに、我らが神の君はどのような反応を示したのでしょうか。江戸幕府の公式記録『徳川実紀(東照宮御実紀)』を読んでみたいと思います。

関東八州、すべて徳川殿に授けよう!上機嫌な秀吉に嫌な予感

歌川豊宣「新撰太閤記」より、小田原征伐に臨む秀吉(中央)と家康(右)

……さて関白ハ諸将の軍功を論じ勤賞行ハる。 駿河亜相軍謀密策。今度関東平均の大勲此右に出るものなければとて。北条が領せし八州の国々悉く 君の御領に定めらる。……

※『東照宮御実紀』巻四 天正十八年「秀吉封家康于関東」

小田原征伐の後、秀吉は諸将を集めて論功行賞を行いました。

「いやぁ、駿河亜相(家康。亜相は大納言の意)殿の軍謀密策は大したものだ!こたびの戦で関東を平らげた勲功は、右に出る者がおらぬわい!」

とまぁいつもの調子で誉め言葉の大盤振舞い。こういう時は、決まって何かたくらんでいるのが秀吉という男です。

「そこでこたびは徳川殿に、北条の所領であった関東八州ことごとく授けようではないか!」

うむ、あれだけの大手柄だから、それくらいは当然じゃろう……秀吉は呵々大笑しながら宣言しました。嫌な予感しかしませんね……。

五ヶ国を奪われた家康。さらに八州と言っても……

……(秀吉今度北條を攻亡し。その所領ことゞゝく  君に進らせられし事は。快活大度の挙動に似たりといへども。其實は 當家年頃の御徳に心腹せし駿遠三甲信の五国を奪ふ詐謀なる事疑なし。其ゆへは関東八州といへども。房州に里見。上野に佐野。下野に宇津宮。那須。常陸に佐竹等あれば八州の内御領となるはわづかに四州なり。……

※『東照宮御実紀』巻四 天正十八年「秀吉封家康于関東」

「いや、しかし……」

ここでまた秀吉の猿芝居。今回の小田原征伐で手柄を立てたのは、何も家康だけではありません。北条の所領をすべてやってしまっては、他の大名たちが不満に思うことでしょう。

家康の関東国替え。秀吉の狙いは最初からこれだった(イメージ)

「徳川殿~……あの、わしも武士ゆえ、そなたに『関東八州を授ける』と言ったことを違えとうない。そこで代わりと言っては何だが、関東八州と引き換えに、徳川殿の所領五ヶ国を下さらぬか?」

なぁにが「代わりと言っては」なのかさっぱり理解できないものの、それが秀吉の狙いでした。

「のぅ、えぇじゃろ?五ヶ国と八州を引き換えじゃ。他の者たちにも褒美をやらねば、わしの天下も怪しくなってしまう。ここは一つ、わしを助けると思って……」

いや、それなら関東八州を皆様で分配なされては……いやいや、それではわしが二言したことになってしまう。ここは何としても引き換えということで……とまぁ何やかんやと押し切られてしまいました。

「すまん、徳川殿!まこと恩に着る!」

かくして家康はこれまでの戦で切り取ってきた三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五ヶ国を奪われ、代わりに関東八州を与えられたのです。

関東八州の実情。家康の所領は4か国ほどしかない(イメージ)

しかも関東八州と言えば聞こえはよいものの、実際には各地に敵対勢力が根を張っており、実質的には相模・武蔵・下総・上総の四か国程度しかありませんでした。

これでは体よく一国を削られてしまった形です。しかし、今になって文句を言っても始まりません。まったく巧いことハメられてしまいましたね。

家康を関東に封じ込めろ!東海道封鎖作戦

……かの駿遠三甲信の五ヶ国は。年頃人民心服せし御領なれば。是を秀吉の手に入。甲州は尤要地なれば加藤遠江守光泰を置。後に浅野弾正少弼長政を置。東海道要枢の清洲に秀次。吉田に池田。浜松に堀尾。岡崎に田中。掛川に山内。駿府に中村を置。是等は皆秀吉腹心の者共を要地にすえ置て。関八州の咽喉を押へて。少しも身を動し手を出さしめじと謀りしのみならず。また関東は年久しく北條に帰服せし地なれば。新に主をかへば必一揆蜂起すべし。土地不案内にて一揆を征せんには必敗べきなり。其敗に乗じてはからひざまあるべしとの秀吉が胸中。明らかにしるべきなり。……

※『東照宮御実紀』巻四 天正十八年「秀吉封家康于関東」

こうしてまんまと家康が手塩にかけて治めてきた五ヶ国を手に入れた秀吉。これらは東海道の要衝であり、ここを抑えて家康を関東に封じ込める狙いがありました。

家康の上洛を阻止する、東海道封鎖計画(イメージ)

まず甲斐国には加藤光泰(のち浅野長政)を配置。東海道には東から駿府に中村一氏、掛川に山内一豊、浜松に堀尾吉晴、吉田に池田輝政、岡崎に田中吉政、そして清州に豊臣秀次と、信頼できる大名たちでガッチガチに固める計画です。

これだけではまだ安心できません。関東の領民たちは永らく北条に仕え、いくらかでも忠誠が残っているはず。そこで一揆を煽動して徳川の国力を削いでやれば、滅ぼす隙も生まれよう……秀吉はそう考えていたのでした。

たとえ奥州に移ろうとも……家康の心意気

……されば御家人等は御国換ありとの風説を聞て大に驚き騒しを。 君聞召。汝等さのみ心を労する事勿れ。我たとひ舊領をはなれ。奥の国にもせよ百万石の領地さへあらば。上方に切てのぼらん事容易なりと仰ありて。自若としてましましけるとぞ。果して八州の地御領に帰して後。彌我国勢強大に及び。終に大業を開かせ給ふにいたりては。天意神慮の致すところ。秀吉私智私力をもて争ふべきにあらざりけり。)……

※『東照宮御実紀』巻四 天正十八年「秀吉封家康于関東」

そんな秀吉の見え透いた悪意を感じ取り、徳川家臣団は上を下への大騒ぎです。

「これは関白の陰謀だ!」

「訳も解らん土地へ追いやられ、真綿で首を絞められるくらいなら、今ここで一戦交えようぞ!」

……などなど。しかし「我らが神の君」は動ぜざること山のごとく、家臣たちを諭して言いました。

「そのように案じることはないぞ。わしはたとえ駿府を離れてどこへ行こうが、それこそ奥州であろうが百万石ばかりも所領があれば、たちまち都へ斬り上がること造作もないわい」

泰然自若たる様子に、家臣一同も落ち着きを取り戻し、粛々と関東の新天地へと向かったのです。

江戸城の様子(画像:Wikipedia)

その後、江戸の地を切り拓いて東国随一の大都市に発展させ、ついには豊臣家をもしのいだことは後世に伝わるとおり。

これまさしく天のご意思にして神様のお計らい。秀吉ごときの猿知恵の及ぶところではありませんでした。

……という次第。もし秀吉が家康に江戸ひいては関東を与えなかったら、そこまで国力をつけられず、天下の行く末も大きく変わっていたかも知れませんね。

果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、江戸のまちづくりや関東の基盤整備などがどのように描かれるのでしょうか。とても楽しみにしています。

※参考文献:

『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション

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