明治維新の超大物政治家・山県有朋の人と業績を探る【後編】~地方自治制度と日本初の総選挙・国会審議~
地方自治制度の整備
前編、中編で、山県有朋の出自とその思想信条について解説しました。
明治維新の超大物政治家・山県有朋の人と業績を探る【中編】~その思想と信念~次に、山県有朋の内閣総理大臣としての業績も見ていきましょう。彼は1889(明治22)年に首相に就任しましたが(第一次山県内閣)、その直後に行った最大の仕事の一つが「地方自治制度」の確立でした。
とは言っても、当時敷かれたのは現代の地方自治制度とは全然違うものです。山県が考えたのは、1890年の国会開設を前に、政党勢力が地方に影響するのを防ぐことでした。急進的な国家転覆につながる自由民権運動が地方に波及して、中央政府の国家運営の邪魔にならないようにしたのです。
今から見ると考えられない話ですが、山県は民主制に基づく「政党政治」のことをあまり信頼していませんでした。政治のことは、個々の国民よりもしっかりしたトップが決めていくべきだと考えていたのです。
さて、当時の地方自治制度の細かい内容は割愛しますが、山県が期待したのは、「老成着実の人士」たる地方の名望家が地方議会の議員となり、市町村に住む人々の「市民」としての公共精神を育成する場として地方議会が機能することでした。
また、当時の地方行政は江戸時代の体制が引き継がれたままで、国土はバラバラでした。もともと、国土のうち四分の一は江戸時代の天領・旗本領・寺社領だった上に藩のサイズもバラバラ、その領地も散在していたのです。こんな状態なので、明治時代初期の地方行政は、責任の所在も不明なままで行われていました。
これを少しずつ整理して都道府県と市町村、それに「郡」に分類し、それぞれに近代的な議会を設けさせたのは山県有朋の業績です。
「文明国」としての証を立てるまた山県有朋は、日本の政治史上で二回、内閣を成立させています。第一次山県内閣は1889年末の12月24日、今で言えばクリスマスの日に成立しましたが、この時は第一回の総選挙が差し迫っていました。
山県としては、もちろん国を護り秩序を重んじる「老成着実の人士」たちが多数の議席を占めることを願っています。しかし反政府系の政党・政派(今で言えば野党)も勢いがあり、「藩閥政権打倒による政党内閣樹立」「台糖条約の締結」「政治費用の節減」「民力休養」「言論・出版・集会の自由」を求めていました。
そして選挙の結果は、300議席中174議席を反政府系が占めることになり、政府提出の予算案は第一回帝国議会からさっそく紛糾します。山県は首相として、制度確立・殖産興業・軍備強化が喫緊の課題であることを訴えますが審議は難航。最終的には自由党の土佐派を切り崩して、630万円あまりの削減で議会を通過します。
政府はこの時、解散することも考えていました。しかし第一回目の議会からいきなり解散では、諸外国から、日本での立憲制はまだ早いのではないかと思われてしまう懸念があったようです。他にも、欧米以外でも議会を開いた国としてトルコがありましたが、そこではたちまち解散する羽目になっており、こうした事態は何としても防ぎたいところでした。
国会で予算案を通すこと自体は、今の視点で見ると当たり前のようですが、当時の世界情勢に照らし合わせると快挙と言って差し支えない成果でした。日本初の総選挙と国会を成功させて、文明国として世界に認められるための大きな一歩となったのです。
これは山県だけの功績ではなかったと言えます。反政府政党・政派も「国会の成功」は悲願であるという気持ちを共有しており、審議の落としどころや妥協点を誤らずに済んだことが大きかったと言えるでしょう。
参考資料
八幡和郎『歴代総理の通信簿』2006年、PHP新書
宇治敏彦/編『首相列伝』2001年、東京書籍
サプライズBOOK『総理大臣全62人の評価と功績』2020年
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