「どうする家康」猿に続いて、白兎まで女狐の毒牙に!?第38回放送「唐入り」振り返り

Japaaan

「どうする家康」猿に続いて、白兎まで女狐の毒牙に!?第38回放送「唐入り」振り返り

愛する我が子・鶴松を喪ったショックと、茶々(北川景子)を慰めたい一心で朝鮮出兵=明国征伐を強行した豊臣秀吉(ムロツヨシ)。

連戦連勝が伝えられる中、実は苦戦しているという前線情報をつかんだ徳川家康(松本潤)は、切腹をも覚悟で秀吉に渡海を思いとどまるよう諫言しました。

その甲斐あってか一度は「女狐」茶々を遠ざけた秀吉でしたが、彼女が子を孕んだとの報せに狂い、再び招き寄せてしまうようです。

老いてしまった猿に続き、白兎もとい我らが神の君まで、女狐の毒牙にかかってしまうのでしょうか……それでは今週も「どうする家康」第38回放送「唐入り」を振り返っていきましょう!

家康から見た朝鮮出兵……『徳川実紀』の記述

名護屋城の縄張り(画像:Wikipedia)

……関白は朝鮮を討んとの思ひ立ありければ。やがて當職を養子秀次にゆづられ。其身は太閤と称せられ。渡海の沙汰專らなれば。 君も文禄元年二月に。東国諸大名の総大将として江戸を立せ給ひ。肥前の名護屋に渡らせ給ふ……此いくさにひまなきほどに。年の矢は射るが如くに馳て文禄も四年に移りぬ。……

※『東照宮御実紀』巻四 天正十九年―慶長元年「秀吉譲関白于秀次尋企外征」「文禄元年家康発江戸赴肥前」

秀吉の野望にしょうがなくつき合って名護屋城へ詰め、何やかんやで矢の如く年月は流れて気づけば文禄4年(1595年)に……そんな認識だったようです。これが家康=徳川家から見た朝鮮出兵の公式見解と言えるでしょう。

じっさい家康たちは朝鮮へ渡っていませんし、今一つ緊張感に欠けるのは無理もありません。

しかし前線では苦しい戦いが続いており、その実情は石田三成(中村七之助)が握りつぶすという残念な状態。

「今まで殿下のなさることに間違いはなかった」

うーん、どうやら今回の三成ガチャはハズレみたいです。そんな人物を重用して政権の舵取りを託している秀吉……いよいよ焼きが回ったのでしょうか。

『徳川実紀』では、こうも書いています。

……(秀吉足利氏衰乱の余をうけ。舊主右府の仇を誅し。西は島津が強悍をしたがへ。東は北條が倨傲を滅し。天下やうやく一統し万民やゝ寝食を安んぜむとするに及び。また遠征を思ひ立私慾を異域に逞せんとするものは。愛子を失ひ悲歎にたえざるよりおこりしなどいへる説々あれども。實は此人百戦百勝の雄略ありといへども。垂拱無為の化を致す徳なく。兵を窮め武を黷(けが)し。終に我邦百万の生霊をして異賊の矢刃になやませ。其はてハ富強の業二世に傳ふるに及ばず。悉く雪と消氷ととけき。彼漢武匈奴を征して国力を虚耗し。隋煬遼左を伐て。終に民疲れ国亡ぶるに至ると同日の談なり。人主つとめて土地を廣め身後の虚名を求めんとして。終には身に益なく国に害を残すもの少なからず。よくよく思ひはかり給ふべき事にこそ。)……

※『東照宮御実紀』巻四 天正十九年―慶長元年「秀吉譲関白于秀次尋企外征」「文禄元年家康発江戸赴肥前」

秀吉は戦国乱世に生まれ、織田信長の仇討ちを果たして天下取りに名乗りを上げました。西は島津を従えて、東の北条は滅ぼして、天下一統の大業を成し遂げます。

これでようやく平和に暮らせると思っていたら、今度は唐入りなどと言い出す始末。

愛する我が子を喪った悲しみで狂ったなどと言われているが、さにあらず。元々秀吉という人は、戦の知恵こそ働くが、世の中を平和に治める人徳はありません。

いたずらに力を誇示して武をけがし、百万にも及ぶ同胞を異国との戦争に苦しめるばかり。

それで結局、せっかくの天下を我が子に伝えられなかった(子の代で滅ぶ憂き目を見た)のです。雪が消え、氷がとけるような豊臣家の有り様は、まるで漢の武帝か隋の煬帝に比せられるでしょう。

君主たる者、いたずらに欲望と名誉を貪れば、かえって国まで損なうことを肝に銘じねばなりません。

……とまぁ当時の家康がそこまで見通していたとは思えませんが、朝鮮出兵が天下一統の英雄・秀吉の晩節を汚し、豊臣家に斜陽を兆したのは間違いないでしょう。

どうか先陣を!秀吉の唐入りを止めるどころか……

朝鮮出兵を止めるどころか、本当はやる気満々だった家康(イメージ)歌川芳虎筆

劇中では秀吉の唐入りを諌めた我らが神の君。しかし『東照宮御実紀附録』を読むと、少し様子が違ったようです。

……朝鮮に渡りし軍勢永陣思ひくして。戦の様はかばかしからざるよし聞えければ。太閤諸大名をつどへ。かくては合戦いつはつべしとも思はれず。今は秀吉みづから三十万の大軍を率ひて彼国にをし渡り。利家氏郷を左右の大将とし三手に分れて。朝鮮はいふに及ばず大明までも責入。異域の者悉くみな殺しにせん。日本の事は 徳川殿かくておはせば心安しと有ければ。利家氏郷等上意の趣かたじけなきよしいふ。……

※『東照宮御実紀附録』巻七「浅野長政停秀吉之外征」

朝鮮の戦況が思わしくないことを知った秀吉は、諸大名を集めて言いました。

「こんな調子では、いつまで戦が続くか分からん。かくなる上は余が自ら30万の兵を率いて海を渡り、前田利家(宅麻伸)と蒲生氏郷で三手に分かれて戦おう。そして朝鮮ひいては明国まで皆殺しにしてくれるわ!」

それでは、日本が手薄になるのでは……など案ずる者もいたでしょう。でも大丈夫です。

「日本のことについては徳川殿に任せれば心配あるまい。よいな」秀吉の指名を受けて、前田利家と蒲生氏郷の両将は奮い立ったことでしょう。

……其時 君にはかに御けしき損じ。利家氏郷にむかはせられ。それがし弓馬の家に生れ軍陣の間に人となり。年若きよりいまだ一度も不覚の名を取らず。今異城(原文ママ。域か)の戦起りて殿下の御渡海あらむに。某一人諸将の跡に残とゞまつて。いたづらに日本を守り候はんや。微勢なりとも手勢引連殿下の御先奉るべし。……

※『東照宮御実紀附録』巻七「浅野長政停秀吉之外征」

しかし、家康は納得しません。

「太閤殿下は何を仰せか。わしは武家に生まれて若いころから一度も不覚をとったことがない。いま朝鮮や明国を相手に一世一代の大戦をしようと言う時に、一人日本で留守番せよとはあまりにも無慈悲。ここは是非とも、太閤殿下の先陣をお申しつけ下されたい!」

とのこと。戦なき世をつくるどころか、もうやる気満々ですね。

……人々の推薦を仰ぐ所なりと宣へば。関白(原文ママ。太閤か)大にいかり。おほよそ日本国中において。秀吉がいふ所を違背する者やある。さらんには天下の政令も行はるべからずとあれば。 君尋常の事はともかうもあれ。弓箭の道に於ては後代へも残る事なれば。たとひ殿下の仰なりともうけがひ奉ること難しと宣ひはなてば。一座何となくしらけて見えしに。……

※『東照宮御実紀附録』巻七「浅野長政停秀吉之外征」

これを聞いた秀吉は機嫌を損ね、家康に怒鳴りつけます。

「この日本国内でわしが命じたことに逆らう者がおってなるものか!これを見逃しては天下に示しがつかぬ!」

わしの命令が聞けんのか……秀吉の怒りに対して、家康の怒りも負けてはいません。

「それがしとて、平時ならば殿下のお言いつけに逆らうなど致しませぬ。しかし弓矢の道においては子孫の名誉にもかかわること。たとえ殿下のご命令であろうと承ることはできませぬ!」

お留守番なんて絶対に嫌だ!わしも朝鮮に行って活躍したいんじゃー!と言わんばかり。もう老齢に達している両雄のいさかいに、周囲はいささか白けてしまったようです。そんな中、声を上げる者がおりました。

殿下には狐が憑いておる!浅野長政の諫言

秀吉の唐入りを諫めた浅野長政(画像:Wikipedia)

劇中、ただ一人真っ向から秀吉の唐入りを否定してのけた浅野長政(濱津隆之)。

果たしてそんな事があったのか調べてみたら『東照宮御実紀附録』にこんなくだりを見つけました。少し長いですが、これも読んでいきましょう。

……浅野弾正少弼長正進み出て。 徳川殿の仰せこそげに尤と思ひ候へ。此度の役に中国西国の若者どもはみな彼地にをし渡り。殿下今また北国奥方の人衆を召具して渡海あらば。国中いよいよ人少に成なん。その隙を伺ひ異城より責来るか。また国中に一揆起らんに。徳川殿一人残りとゞまらせ給ひ。いかでこれを志づめたまふ事を得ん。さらばこそ渡御あらんとは宣ふらめ。長政がごときも同じ心がまへにて侍れ。……

※『東照宮御実紀附録』巻七「浅野長政停秀吉之外征」

長政の曰く「徳川殿の仰ること、もっともに存じます。此度の戦で西国の者たちどころか、今度は北陸や奥州の者たちも動員すれば、日本国内の守りが手薄になります。その隙をついて他国が攻めて来たり、謀叛が起きたりするかも知れません。いくら徳川殿でも、お一人では守り切れますまい。よって殿下の唐入りはご再考いただきたいと、それがしも同じく考えております」と。

この「同じ心がまへ」にかかるのは、文脈から家康に対する同意なのでしょうが、その趣旨は異なるように感じます。ともあれ、長政は続けました。

……惣て殿下近比の様あやしげにおはするは。野狐などが御心に入替しならんと申せば。関白いよいよいかられ。やあ弾正。狐が附たるとは何事ぞとあれば。弾正いさゝか恐るゝけしきなく。抑応仁このかた数百年乱れはてたる世の中。いま漸く静謐に帰し。万年太平の化に浴せんとするに及び。罪もなき朝鮮を征伐せられ。あまねく国財を費し人民を苦しめ給ふは何事ぞ。諺に人をとるとう亀が人にとらるゝと申譬のことく。今朝鮮をとらむとせらるゝ内に。いかなる騒乱のいできて。日本を他国の手に入んも計り難し。かくまで思慮のなき殿下にてはましまさゞりしを。いかでかくはおはするぞ。さるゆへに狐の入替りしとは申侍れといへば。……

※『東照宮御実紀附録』巻七「浅野長政停秀吉之外征」

「そもそも近ごろの殿下は妙なことばかり思い立って、狐にでもとり憑かれたのではございますまいか」

「やい弾正(長政)!狐が憑いたとは何たる暴言か!」

「ようござるか。応仁の乱よりこのかた、百年以上にわたる乱世がようやく静まろうとしているにもかかわらず。殿下は罪もなき朝鮮国へ兵を出され、国財を浪費して臣民を苦しめておいでじゃ。これを狐憑きと言わず何と言われるか!」

「むむむ……」

「何がむむむじゃ。よろしいか。ことわざに『人を食おうとした亀が人に捕らわれる』と申しましょう。朝鮮や明に気をとられて、肝心の日本国を失ってはお話しになりませぬ。それが解らぬ殿下でもなかろうに、だから狐が憑いたと思うたまでよ!」

完膚なきまでに論破されてしまった秀吉は、ぐうの音も出ず、負け惜しみを漏らしました。

……関白事の理非はともあれ。主に無礼をいふことやあるとて。已に腰刀に手をかけ給へば。織田常真前田利家などおしふさがり。弾正こそ立といへども退かず。某年老て惜くも侍らぬ命を。めされむにはめされよとて座を立ねば。 君徳永有馬の両法印に命じて。長政を引立て次の間につれ行て事済けるとなり。秀吉も後には悔思ひけるにや。みづから渡海の儀はやみけるとぞ。(岩澗夜話別集。天元實記。)……

※『東照宮御実紀附録』巻七「浅野長政停秀吉之外征」

「黙れ黙れ!事の理非はともかくとして、主君に暴言を吐くなど許さぬぞ!」

完全に怒り狂った秀吉は、腰の刀に手をかけました。それを織田常真(織田信雄)と前田利家が慌ててとどめます。

「弾正、立て!」

その場を収めようと長政に退出を命じますが、長政はそれに従わず、言い捨てました。

「もう十分に長生きしたゆえ、もはや命も惜しうない。殺すなら好きにすればよかろう!」

そう言って立ち上がり、長政は退出。後から徳永寿昌と有馬規頼の二人に命じて、形式的に引き立てさせます。

一度始めた戦を簡単にはやめられないものの、ともあれ秀吉自身の唐入りは取りやめになったのでした。

劇中ではまるで家康の説得によって思いとどまったような描写でしたが、むしろ先陣を切りたいイケイケ派だったようです。

足利義昭、あらため昌山道休のこと

京都追放後も、しぶとく将軍であり続けた足利義昭(画像:Wikipedia)

京都を追放されて以来、久しぶりに登場した室町幕府の第15代将軍・足利義昭(古田新太)。今は出家して昌山道休と号しています。

元亀4年(1573年。天正元年)7月18日に槇島城で織田信長に降伏・追放されてからの動きをざっくりおさらいしましょう。

槇島城から摂津の若江城に移された義昭は7月24日付で中国地方の覇者たる毛利輝元(吹越満)らに幕府再興の支援を要請しました。本当に懲りないひとですね。

他にも石山本願寺や上杉謙信などに援助を求め、また大名間の争いについて和睦を仲介するなど、なおも将軍然と振る舞います。

実際に義昭は天正16年(1588年)まで征夷大将軍の座にあり、天正4年(1576年)には備後国鞆(とも。広島県福山市)に亡命政権を樹立しました。これを鞆幕府と解釈する説もあるようです。

鞆の地はかつて初代室町将軍・足利尊氏が再起を図った場所であり、実際に義昭も天正15年(1587年)に京都への帰還を果たしました。本当に悪運の強いひとですね。

将軍職を辞した後に皇族と同等待遇である准三宮(じゅさんぐう)に宣下され、出家して昌山道休と号します。家康たちの元を訪ねたのは恐らくフィクションでしょう。

そして慶長2年(1597年)8月28日、大坂で薨去したということです。劇中では実に出来過ぎたタイミングで現れて、権力者の孤独を語って去ってゆく、実に都合のよい舞台装置として活躍しました。

権力者は山のてっぺんで、何もかもよく見えるかと思ったらさにあらず。霞がかかって何も見えず、聞こえて来るのはおべんちゃらばかり。だから厳しいことを言ってくれる家康を大事にしなさい。

……もちろんいいことを言っているとは思います。思うのですが、かつて酔っ払いながらコンフェイト(金平糖)を頬張っていた暗君ぶりからどうしてその境地に至ったのか、その過程こそがドラマの醍醐味ではないでしょうか。

その他、細かなツッコミあれこれ

加藤清正の虎退治。後世の創作とされるが、永らく日本人に愛されたエピソードでもある(イメージ)歌川芳房筆

大谷吉継(忍成修吾)が初登場。三成とコンビでいい感じ。だけど、存在感はいまいち薄め。もうちょっと活躍場面が欲しいところ。

増田長盛(隈部洋平)も初登場。ワクワクしたけどごめんなさい、どこにいました?

阿茶局(松本若菜)、相変わらず畳の上でも立膝ですが、仮にも御客人を相手に「狐」狩りとほのめかすのはいくら何でも失礼では?

朝鮮での戦闘場面、向こうの軍装を用意するのは大変でしょうが、ちょっと頑張って制作して欲しかったです。加藤清正(淵上泰史)や福島正則(深水元基)の大暴れを期待していました。

服部半蔵(山田孝之)が最後まで「残念な子」でちょっとがっかり。彼は間もなく世を去るので、最後くらい武士らしくカッコよく描いて貰えなかったのでしょうか。

家康と茶々が二人きりで嫌な感じに。この時代、大名クラスの人物が側に誰も控えていないのはちょっと違和感があります。

加えて、あれだけ亡き瀬名(有村架純)を愛していた設定なのですから、真面目に妻として迎える女性以外はキッパリとはねつけて欲しかったです。

仲(高畑淳子。大政所)の最期。周囲に寧々(和久井映見。北政所)しかいないのはどうなんでしょう。もう少し家族に囲まれているイメージですが……。

それと、秀吉に対して「たかが百姓の小倅が、身の程をわきまえなされ!」と諭していますが、そういうことを他の誰でもない妻に言われるのはダメージが大きいもの。そして最も意固地になってしまう悪手ではないでしょうか。

一応言っておきますが、家康が切腹をほのめかした時「腹を召す」という表現は日本語としていただけません(過去にも2度ほど出てきましたが)。これは相手に対して「腹を召されませ(自害して下さい、の尊敬語)」などと使います。

……などなど。今週はこのくらいにしておきましょうか。

第39回放送「太閤、くたばる」

月岡芳年「朝鮮征伐大評定ノ図」

さて、帰って来た茶々に惑わされ、秀吉は再び朝鮮出兵(慶長の役)をやらかすようです。こうなったらもう、誰が何と言っても歯止めがききません。

秀吉が本当に欲しかった我が子=家族を授けてくれた茶々。でも、その子は本当に秀吉の子だったのでしょうか。

「本当に、あなたの子だとお思い?」

昔から言われている「拾丸(豊臣秀頼)は秀吉の子じゃない説」。このショックがトドメとなって、秀吉は何もかも放り投げ「くたばって」しまうのでした。

※この「くたばる」って表現は、公共放送としてどうなんでしょうね。子供が真似しそうですし……。

秀頼の実父候補としてよく挙げられるのは、大野治長(玉山鉄二)・石田三成・名古屋山三郎(さんざぶろう)など。こういうゴシップ的な話題は、昔から人気だったようですね。

何もかも手に入れながら、本当に欲しいものは手に入らなかった……そんな権力者の哀れな最期が描かれるのでしょう。次週の展開も目が離せませんね!

※参考文献:

『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション 奥野高広『人物叢書 足利義昭』吉川弘文館、1989年12月 笠谷和比古ら『秀吉の野望と誤算 文禄・慶長の役と関ヶ原合戦』文英堂、2000年6月 中野等『戦争の日本史16 文禄・慶長の役』吉川弘文館、2008年1月

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「「どうする家康」猿に続いて、白兎まで女狐の毒牙に!?第38回放送「唐入り」振り返り」のページです。デイリーニュースオンラインは、朝鮮出兵有馬規頼昌山道休文禄の役徳永寿昌カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る