江戸開発に大いに貢献!「神様仏様伊奈様」と慕われた伊奈忠次の生涯と功績を紹介【どうする家康】

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江戸開発に大いに貢献!「神様仏様伊奈様」と慕われた伊奈忠次の生涯と功績を紹介【どうする家康】

どうする家康で伊奈忠次(演:なだぎ武さん)が登場しました。ですが、皆さんの中には忠次の名前をどうする家康で初めて知ったという方もいるのではないでしょうか。

それくらいマイナーな人物ではありますが、実は家康の江戸開発に多大な貢献をした人物でありました。

そこで今回は、江戸の開発に携わった功労者・伊奈忠次がどんな人物だったのか、功績や人物像に焦点を当てて紹介いたします。

伊奈忠次/Wikipediaより

2度の出奔を行った

松平信康/Wikipediaより

忠次は天文19年(1550)、伊奈忠家の嫡男として生まれます。永禄6年(1563)に起こった三河一向一揆では、父が一向一揆勢に加担したことで出奔を言い渡されました

その後、長篠の戦いで陣借りをする形で、松平信康の軍に従軍。功績を残したことで、信康の家臣として仕えました。

しかし、天正7年(1579)に信康が自害したことで再度出奔し、伯父の貞吉がいる和泉国・堺へ移りました。

小栗同心の1人として活躍

徳川家康/Wikipediaより

本能寺の変後に起きた伊賀越えでは堺にいたことにより、徳川家臣の小栗吉忠と共に脱出に貢献。その功績により、忠家が持っていた旧領地である小島を拝領されました。

以後、忠次は吉忠が率いた一族郎党衆・小栗同心の同心となり、天正14年(1586)から行われた5ヶ国(駿河・遠江・三河・甲斐・信濃)総検知を実施しました。

また、天正18年(1590)に起きた小田原征伐では、小荷駄による兵糧の輸送や街道整備を担う活躍を見せます。

代官頭として江戸開発に貢献

伊奈氏屋敷跡/Wikipediaより

家康の関東移封後には、小田原征伐の功績も相まって大久保長安・彦坂元正・長谷川長綱たちと代官頭に任命されました。

忠次は武蔵国足立郡小室と鴻巣に1万3000石を与えられ、そこに陣屋(代官の住居)を設け、活動を開始。各地での検知や新田開発、河川改修を行いました。

特に荒川の川の流れを変える工事で築造した堰は、忠次の官位である備前守になぞられ、備前堤と呼ばれています。

こうした忠次の土木工事の方式は伊奈流と呼ばれ、忠次亡き後も活用されました。また、知行割りも行い、江戸幕府の財政基盤の確立に貢献しました。

ちなみに、忠次のいた武蔵国足立郡は現在、埼玉県北足立郡伊奈町と名付けられており、忠次が町名の由来となっています。

代官頭は関東郡代として存在

徳川秀忠/Wikipediaより

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは小荷駄奉行として活躍しました。

そして、慶長12年(1607)に家康の隠居に伴い、忠次は江戸にいる徳川秀忠の側近くに仕えます。その後の慶長15年(1610)に病死し、61歳で生涯に幕を閉じました。

伊奈家の代官頭は忠次の子孫たちが関東郡代と名を変えて存続していました。

しかし、寛政4年(1792)の改易により、解体しています。

神様仏様と慕われた忠次

忠次は農民に養蚕や製塩といった産業を勧めた他に、桑や麻の栽培方法も教え広めましたそのため、「神様仏様伊奈様」と慕われていましたと言われています。

また、忠次の次男・忠治は茨城県筑波郡伊奈町(現在は谷和原村と合併したため消滅)の町名の由来となっていました。

親子2代で町名の由来になるほど、忠次とその子孫たちが慕われていたことがわかりますね。

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