本当にイカサマ師だったのか?本多正信とはどんな人物?その生涯をたどる【どうする家康】

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本当にイカサマ師だったのか?本多正信とはどんな人物?その生涯をたどる【どうする家康】

家臣団の嫌われ者
本多正信 ほんだ・まさのぶ
[松山ケンイチ まつやまけんいち]

大久保忠世の紹介で登用されるが、胡散臭く、無責任な進言をするイカサマ野郎。常識にとらわれない発想の持ち主で、悪知恵が働き、家康の小さな野心を刺激する。やがて天下取りに欠かせない男となる。

※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト(登場人物)より

……この紹介文、10月8日(日)時点に閲覧したのですが、もう少し徳川家の移り変わりに合わせて更新されないものかと思います(ま、本編には支障ありませんが)。

それにしても、胡散臭いだのイカサマ師だのボロッカスな本多正信。果たして実際のところはどんな人物だったのでしょうか。

今回は江戸時代の系図集『寛政重脩諸家譜』より、本多正信の生涯をたどってみたいと思います。

三河一向一揆のあと、姉川の合戦までには帰参

本多正信は天文7年(1539年)、三河国で生まれました。

同い年の武将には足利義栄(幕府第14代将軍)・前田利家(織田家臣、のち豊臣五大老)・北条氏政(小田原北条氏第4代当主)などがいます。

通称は弥八郎、元服してはじめ本多正保と称しますが、後に本多正行⇒正信と二度も改名。この辺りにちょっと事情を感じますね。

【本多家略系図】……本多定政―本多正明―本多忠正―本多正定―本多俊正―本多正信―本多正純―本多正勝―本多正好……

※『寛政重脩諸家譜』巻第693藤原氏(兼通流)本多

本多家は代々松平家に仕えた譜代の家柄。しかし永禄6年(1563年)の三河一向一揆に際して家康に叛旗を翻し、上野城(愛知県豊田市)に立て籠もりました。

翌年に一揆が終結し、謀叛人たちも赦免されましたが、正信はこれをよしとせず出奔。三河を去って加賀国で暮らしていたといいます。

月岡芳年「阿根川大合戦之図」……この中に正信がいたかも?(イメージ)

数年後、高木広正の仲立ちで徳川家へ帰参。元亀元年(1570年)の姉川合戦では朝倉の軍勢に斬り込んで武勇を奮いました。

天正14年(1586年)5月に従五位下・佐渡守に叙せられ、天正18年(1590年)に家康が豊臣秀吉の命で関東へ国替えされた際には、一万石の大名に出世します。

ちなみに、この一万石がどこの所領かについては諸説あるそうです。

(1)上野国八幡(群馬県高崎市)に一万石
(2)上総国八幡(千葉県市原市)に五千石、その他五千石
(3)その他の内訳は下総国佐倉(千葉県佐倉市)と相模国甘縄(神奈川県鎌倉市)

更に月日が流れて慶長4年(1599年)、石田三成や増田長盛が徳川抹殺をたくらんで不穏な空気が漂いました。当時伏見で秀吉亡き後、豊臣政権の政務を支えていた家康は、正信を召し寄せて有事に備えます。

関ヶ原・大坂の陣でも活躍

「徳川二十将図」より、本多佐渡守(正信)

やがて慶長5年(1600年)に会津の上杉景勝を討伐するべく家康が兵を挙げるとこれに従軍。下野国小山(栃木県小山市)まで来たところで、三成らが上方で挙兵した報せを受けました。

さぁどうするか(このまま上杉を討つか、それとも引き返して三成を討つか)……家康は井伊直政・本多忠勝そして正信を呼んで話し合います。

結果、軍を返して三成を討つことに。家康率いる本軍は東海道を通り、嫡男の徳川秀忠には別動隊を預けて東山道から進軍。正信は秀忠の補佐につきました。

しかしこの別動隊は道中で真田昌幸の抵抗に遭い(第二次上田合戦)、とうとう決戦に間に合わない失態を犯してしまいます。秀忠を処罰せんと怒り狂う家康を、正信は何とかなだめたとか。

ともあれ関ヶ原の合戦が終わり、三成らに与した者たちを処罰する中、薩摩の島津義久・島津義弘兄弟がいつまでも上洛しません。

このままでは、島津討伐に九州まで遠征せねばならなくなってしまう……それを避けたい正信は両家の間を奔走し、これまた何とか島津家から謀叛せぬよう起請文を提出させました。

その後、秀忠をさんざん手こずらせた真田昌幸についても、本多忠勝や真田信之らと共に助命嘆願。それで何とか死一等が減じられ、高野山への配流となります。

かくして戦後処理が終わると関東へ戻り、内藤清成と共に都市整備など徳川政権の中枢を担いました。

慶長7年(1602年)5月、常陸の佐竹義宣が改易に処されると、正信は大久保忠隣(忠世嫡男)と共に水戸へ赴いて国内の混乱収拾に務めます。

そして慶長19年(1614年)に起きた大坂冬の陣では再び秀忠の補佐として従軍、11月11日に京都二条城で軍議に出席。正信と嫡男の本多正純、成瀬正成と安藤直次らと共に任務を遂行しました。

翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣にも従軍、5月7日の最終決戦においては家康の側に従います。

もう後のない豊臣方の猛攻はすさまじく、乱戦の中で「背後の部隊が撃破された」という急報が陣中を騒がせました。

「動じるな。前方の戦さに勝っておる時はそのまま進め。後ろに気をとられては、勝てる戦さも勝てなくなるぞ!」

叱咤の甲斐あって味方の混乱は収まり、ついに勝利を収めて豊臣家を滅ぼしたのです。この軍功により、正信は2万2千石に加増されました。

本多正信(画像:Wikipedia)

かくして正信は家康・秀忠の二代に仕え、乱世においては軍謀をめぐらせ、治世においては国政を司る両道ぶり。主君からは深い信頼を得て、臣下としてそれに応える様子は、まさに水魚の交わりと言えるでしょう。

親密な間柄でいながら、言うべき時はしっかりと諫めて過ちを正し、徳川家中の絆を強めた大功労者でした。

家康が駿府から江戸を訪れ、あるいは鷹狩りなど楽しむ時、正信は昼夜を分かたずそばに仕えたそうです。

およそ国政の舵取りをすること十七年、七十歳を超える老齢となってもなお衰えず活躍しました。

後に正信は政治の教訓七ヶ条を記して正純らに遺し、これが『本佐論(本多佐渡論)』と呼ばれました。

そして元和2年(1616年)6月7日、正信は4月17日に余を去った家康の後を追うように79歳の生涯に幕を下ろしたということです。

終わりに

以上『寛政重脩諸家譜』が伝える本多正信の生涯を、駆け足でたどってきました。

一度家康を裏切ったのは事実ながら、大河ドラマ「どうする家康」にあるような胡散臭さや「イカサマ師」ぶりは見受けられません。

ここにはないけど大久保忠隣を失脚させていることから、大久保忠教(忠世の弟)はじめ大久保びいき等から憎まれているのは仕方ないとしても、もう少し彼なりの思想や信念が描かれて欲しかったと思います。

家康の死を見届けることになる正信は、果たしてどんな最終回を迎えることになるのか……今から楽しみですね。

※参考文献:

『寛政重脩諸家譜 第4輯』国立国会図書館デジタルコレクション

トップ画像(左):NHK大河ドラマ「どうする家康」公式HPより

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