日本憲政史上の「負の大物」のひとり・近衛文麿とは何者だったのか【後編】
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さて、第三次近衛内閣が退陣し、その後を継いだ東條英機内閣によって太平洋戦争が始まります。
東條は、開戦直後に日本が連戦連勝している間は良かったのですが、その後の戦局の悪化に伴い、権力を自分のもとに集中させて国民に対して圧政を強いていきます。
彼は参謀総長などの役職を兼任し、「それは憲法違反だ」「東條の言うことを聞いても日本は負けっぱなしじゃないか」と批判する人には弾圧を加えました。
1941年(昭和16年)10月18日、総理大臣官邸での初閣議を終えた東條内閣の閣僚ら(Wikipediaより)
権力の座から退いた近衛は、ここで急に良識的な見方に立ち戻って終戦工作のために動き始めます。
サイパン島が落ちて日本が空襲の脅威にさらされ、いよいよ敗戦が現実味を帯びてくると、ここで「もう東條ではだめだ」という共通認識のもと、近衛が中心になって種々の和平工作が行われるようになったのです。
「和平工作」と「東條倒閣」はワンセットでした。倒閣には元駐英大使だった吉田茂、陸軍皇道派、海軍大将の小林躋造らが動き、重臣の岡田啓介もこれに呼応。近衛文麿の秘書である細川護貞は、東條暗殺も計画していました。
ちなみに細川は、近衛がなぜ東條倒閣の時に目が覚めたように活躍できたのかについて、「痔」が原因だったと述べています。近衛は痔が悪い時は気力が全くなかったのですが、手術後は人が変わったようになったとか。
痔の手術がもっと早ければ戦争も避けられたし、体調が回復したからこそ和平工作に勤しむこともできたのだろう、と細川は説明しています。
こうして東條内閣は総辞職に追い込まれました。
戦後も大臣として交渉その後は小磯国昭内閣を経て、鈴木貫太郎内閣によって終戦となります。玉音放送が流れた1945(昭和20)年8月15日の二日後に内閣は総辞職し、後任の首相は初の皇族出身者である東久邇宮稔彦王となります。
ここで、近衛は副総理格である無任所相として入閣しました。
さすがにこの時の彼の入閣は風当たりが厳しいものでした。単なる名門出身で人脈が広いというだけで、何の功績もないどころか日本を泥沼の戦争に導いたのだから当然です。もはや、かつての人気は完全に失われていました。
それでも戦後処理では一定の役割を果たしており、国務大臣としてマッカーサーから憲法改正の検討を依頼されたりしています。
もっともマッカーサーは昭和天皇と個人的な信頼関係を築いていたので、近衛の存在は不要だったと言えるでしょう。
悲劇の自決近衛に、占領軍から逮捕指令が発せられたのは12月6日のことです。その出頭期限である12月16日の未明、近衛は自宅で青酸カリを飲み服毒自殺しました。享年54歳。
遺書には「僕は志那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対して深く責任を感じて居るが、いわゆる戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受けることは耐え難い事である。」と書かれていました。
1945年(昭和20年)12月17日、近衞の遺体を検死するGHQの憲兵(Wikipediaより)
ちなみに、東條英機も9月11日、戦犯として逮捕される直前にピストル自殺を図りますが失敗に終わっています。
武人でありながら自決に失敗するという醜態を晒した東條は、世間から「東條は腹の肉をつまんで銃を撃ったんだろう」などと揶揄されます。これに比して、五摂家筆頭の貴公子でありながら見事に自決を遂げた近衛の方が、ある意味で世間からは高く評価されました。
近衛の評価が戦後もあまり悪くなかったのは、この「潔く自決した悲劇の宰相」というイメージが強いからでしょう。しかし、昭和期末に昭和天皇が近衛のことを酷評していることが明らかになり、これがきっかけで彼への評価は大きく変わります。
現在では、「国民政府を相手にせず」の宣言で満州事変への対応に失敗して日中戦争の泥沼に足を踏み入れ、その後も陸軍の暴走を抑えられず、またアメリカとの関係も修復できないまま内閣を二度投げ出したとして、昭和の政治史に悪名を刻んでいます。
彼は名門望族・頭脳明晰・容姿端麗と三拍子揃っており、性格も決して悪くはありませんでした。それだけに国民からの期待も高かったのですが、非常時の国家のリーダーとしては致命的なことに思慮深いように見えて押しに弱く、そして行動が軽率でした。それでいて後になって必ず後悔する、「軽薄な貴公子」というのが、現代の多くの評者の間での共通した評価です。
参考資料
八幡和郎『歴代総理の通信簿』2006年、PHP新書
宇治敏彦/編『首相列伝』2001年、東京書籍
サプライズBOOK『総理大臣全62人の評価と功績』2020年
倉山満『真実の日米開戦 隠蔽された近衛文麿の戦争責任』2017年、宝島社
倉山満『学校では教えられない歴史講義 満州事変』2018年、KKベストセラーズ
井上寿一『教養としての「昭和史」集中講義』2016年、SB新書
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