「どうする家康」浪速のことは夢のまた夢…第39回放送「太閤、くたばる」振り返り

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「どうする家康」浪速のことは夢のまた夢…第39回放送「太閤、くたばる」振り返り

太閤、くたばる。

仮にも天下人に対してこの表現はいかがなものか……そう思っていましたが、豊臣秀吉(ムロツヨシ)自身の自嘲と思えば、受ける印象もいささか違ったものになります(それでも公共放送的にはいかがなものかとは思いますが……)。

露と落ち 露と消えにし 我が身かな
浪速のことは 夢のまた夢

【意訳】垂れ落ちる露のように、わしの命も消えてゆく。大坂に象徴される我が栄華など、しょせん夢のようなものよ……

※秀吉の辞世

戦国乱世を全力で駆け抜け、62歳で世を去った秀吉。あれほど欲しがり、我が手につかみとった何もかもが、しょせんは夢のようなものに過ぎなかった……実に儚いですね。

しかし現実世界では第二次朝鮮出兵(慶長の役)真っ最中。遺された「我らが神の君」徳川家康(松本潤)たちは、この後始末をつけねばなりません。

また秀吉の最期を看取った茶々(北川景子)も我が子・豊臣秀頼の母として天下獲り(乗っ取り?)の野心をあらわにしました。

亡き母・お市(北川景子)の遺志を継いで、次週からどうなるのでしょうか。

……という訳でNHK大河ドラマ「どうする家康」第39回放送「太閤、くたばる」今週も気になるトピックを振り返っていきましょう!

まさかのセリフ死!?秀次事件について

豊臣秀次(画像:Wikipedia)

秀吉が関白職を譲った甥の豊臣秀次。しかし拾丸(秀頼)が生まれると、その存在が邪魔になって粛清してしまいました。

時は文禄4年(1595年)7月15日の事です。

……関白秀次ゆづりをうけしより万思ふまゝのふるまひ多かりしかば。人望にそむく事少からざりしに。太閤また秀頼とて齢の末に生れ出し思ひ子あれば。いかにもして是を世に立ばやと下心に思ひなやまれける。其ひまを得て石田等の讒臣青蝿の間言かさなりしかば。秀次終に失はる。この事に座して伊達。細川。浅野。最上などいへるもの等罪得べかりしをも。 君よく太閤をときさとし給ひて平らにおさまりしかば。此輩あつくかしこみ。いづれの時にかをのが命にかへても此御恩報ひ奉らんとぞはかりける。……

※『東照宮御実紀』巻四 天正十九年―慶長元年「秀次自害」

……ここでは秀次の乱行を理由としていますが、石田三成(中村七之助)の讒訴によるものと言います。

このとばっちりを受けて、秀次と関係を持っていた伊達政宗や細川忠興、浅野長政に最上義光らも処罰の対象になったとか。

そんなバカな、濡れ衣にもほどがある……という訳で「我らが神の君」は秀吉を説得。何とか許された彼らは、家康に深く恩義を感じます。

後に彼らは関ヶ原の戦い(慶長5・1600年)で家康率いる東軍に与しました。対する西軍は自分たちを陥れた三成が率いているので、当たり前ですね。

そんな中、最上義光の娘である駒姫は悲劇を免れられませんでした。

何と彼女は秀次に嫁がされたその月に処刑されてしまったのです。わざわざ殺すために嫁がせたのかと勘ぐってしまうでしょう。

もちろん義光は助命嘆願に奔走しますが、秀吉はこれを認めません。それどころか殺して土に埋めた上から、畜生塚(動物の墓)と彫らせた石碑を建立したとか。

秀次に関わったというだけでそんなに憎いのか、そこまで秀頼だけが大事なのか、秀吉の妄執が浮き彫りにされます。豊臣家の斜陽を感じさせる事件でした。

小西行長の偽書とは

小西行長(画像:Wikipedia)

劇中、明国からの使者が訪れ、最初は「余は満足である」と言っていた秀吉。

しかし明国は秀吉の条件など受け入れておらず、小西行長と先方に謀(たばか)られたと知って、秀吉は大激怒していました。

劇中では偽書を作成したという演出でしたが、実際のところはどうだったのでしょうか。

明国の使者は秀吉を順化王(明国に順化=従い、明の属国として日本を治める王)に封じ、他の者たち(※)を大都督(地方の司令官)に任じました。

(※)石田三成・宇喜多秀家・大谷吉継・小西行長・増田長盛ら和平派の武将。

明の皇帝にしてみれば「ホラ。大明帝国の権威で日本を治める国王にしてやるから、これで大人しくしろよ」とでも言った所でしょうか。

王は皇帝よりも格下(※この皇帝と王の関係を冊封体制と言います)なので、明国に和睦の意思などないのは明らかです。

が、これをそのまま伝えたら和平交渉が決裂してしまいます。

なので行長は西笑承兌(でんでん)に秀吉が納得できる内容に通訳(改竄)するよう依頼しました。

しかし西笑承兌は正直に翻訳したため、行長の小細工を知った秀吉は激怒。行長の処刑を命じます。

前田利家や茶々らのとりなしによって事なきを得ますが、行長は朝鮮出兵において更なる奮戦を余儀なくされたのでした。

家康の孫・千姫について

千姫(画像:Wikipedia)

さて、秀吉のセリフに出てきた家康の孫娘・千姫。嫡男の徳川秀忠と江姫(茶々の妹)の間に生まれた娘です。

秀頼と結婚させることで、徳川家との関係を強化させようとしていました。

千姫が生まれたのは慶長2年(1597年)4月11日。秀吉が亡くなる前年ですから、この時点ではまだ2歳です。

家康は千姫の誕生を祝い、京都の御香宮神社に神輿を寄進しました。よほど嬉しかったのでしょう。これは千姫神輿と呼ばれ、改修を経て現代まで受け継がれています。

後の話になりますが、千姫が7歳となった慶長8年(1603年)に約束どおり秀頼と結婚。大坂城へ嫁いで行きました。

更に慶長20年(1615年)、豊臣家の滅亡に際しては祖父の家康に秀頼や茶々の助命を嘆願します。

しかし家康はこれを聞き入れず、秀頼の娘(側室の子。天秀尼)のみ千姫の養子として保護できました。

そして寛文6年(1666年)2月6日に67歳で世を去るのですが、それはまた別の話。

母親の江姫ともども、本作ではどんな活躍を見せてくれるのでしょうか。楽しみですね!

秀吉の最期

秀吉が死の数カ月前に楽しんだ、醍醐の花見(画像:Wikipedia)

返々、秀より事、たのミ申候、五人のしゅたのミ申候
いさい五人の物ニ申わたし候、なこりおしく候、以上、
秀より事、なりたち候やうに、此かきつけ候
しゅとして、たのミ申候、なに事も此ほかにわ
おもひのこす事なく候、
かしく、
八月五日 秀吉
いへやす
ちくせん
てるもと
かけかつ
秀いへ
まいる

※秀吉遺言状

【意訳】何度も繰り返すが、秀頼のことをお頼み申す。五人がた、お頼み申す。詳しいことは五人がたに申し渡した。名残惜しくてならない、以上。

秀頼がちゃんと生きていけるよう書き遺しておく。かたがたにお頼み申す。この他には何も思い残すことはない。かしこ。

慶長3年(1598年)8月5日

徳川家康殿、前田利家(筑前)殿、毛利輝元殿、上杉景勝殿、宇喜多秀家殿へ送ります。

いったい何回「たのミ」申すのか……この繰り返しに、秀吉の未練が伝わりますね。

どんな栄華も財産も、あの世へは持って行けません。また現世の一切につき、遺された者に託すよりありません。

自分が死んだら、まだ幼い秀頼がどんな目に遭うか分からない。かつて亡き主君・織田信長の遺児たちに自分がしてきたことを、悔いていたかも知れません。

今はひたすら懇願するよりありません。そんな哀れさがにじみ出ていました。

ちなみに江戸幕府の公式記録『徳川実紀』には、このように描かれています。

……豊臣太閤既に大漸に及び。 君と加賀亜相利家をその病床に招き。我病日にそひてあつしくのみまされば。とても世に在むとも思はれず。年比 内府と共に心力を合せてあらまし天下を打平らげぬ。秀頼が十五六才にならんまで命ながらへて。この素意遂なんと思ひつるに。叶はざる事のかひなさよ。わがなからむ後は天下大小の事はみな 内府に譲れば。われにかはりて万事よきに計らはるべしと。返すゞゝゝ申されけれど。 君あながちに御辞退あれば。太閤さらば秀頼が成立までは。 君うしろみ有て機務を摂行せらるべしといはれ。又利家にむかひ。天下の事は 内府に頼み置つれば心やすし。秀頼輔導の事に至りては。偏に亜相が教諭を仰ぐところなりとあれば。利家も涙ながして拝謝し。太閤の前を退きし後に。 君利家に向はせられ。殿下は秀頼が事のみ御心にかゝると見えたり。我と御辺と遺命のむねいさゝ相違あるまじといふ誓状を進らせなば。殿下安意せらるべしと宣へば。利家も盛慮にまかせ。やがてその趣書て示されしかば。太閤も世に嬉しげに思はれし様なりとぞ。(天元実記。)……

※『東照宮御実紀附録』巻八「秀吉遺命于家康利家」

秀吉は家康に秀頼の後見を頼み、利家に教育係を頼んでいます。

「やれやれ、もはや殿下は秀頼、秀頼ばかり。天下などどうでもよくなってしまったのか、困ったものじゃ。まぁせっかくだから、起請文でも書いてやれば少しは安心されるんじゃなかろうか」

かくして起請文を差し出した家康ですが、この時点で反故にする気満々だったのかは諸説あります。

第40回放送「天下人家康」

その死について触れられず、公式サイトで死去を知った視聴者も多い?服部半蔵(画像:Wikipedia)

さて、一代の英雄が世を去った後、三成の考えていた合議制が始まるようです。

が、そんなものが上手く行かないのは昨年の大河ドラマで学習済み……いやいや、あれから三百年以上経ってますから、少しはねえ……ねぇ?

次回は偉大なるカリスマ亡き後、豊臣政権が音を立てながら崩壊していく様子が描かれることでしょう。

あれほど仲良しだった家康と三成にも亀裂が入り、それに乗じた茶々の暗躍が予想されます。

いよいよクライマックスへ近づいていく「どうする家康」、これからも目が離せませんね!

※参考文献:

『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション 上田正昭ら監修『日本人名大事典』講談社、2001年12月 藤井讓治 編『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年7月 村上計二郎『列伝偉人の結婚生活』日本書院、1925年1月

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