規則違反も事後承認!「強運」林銑十郎が首相に上り詰めて自滅するまで【後編】

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規則違反も事後承認!「強運」林銑十郎が首相に上り詰めて自滅するまで【後編】

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組閣から大混乱

陸軍は林銑十郎を広田弘毅の後任に推したものの、当初は別の人物を首相にしようとする動きが活発でした。元老の西園寺公望は、陸軍を抑えられそうな実力者・宇垣一成を指名しますが、組閣がうまくいかず失敗。幻と消えた宇垣内閣は「流産内閣」と呼ばれます。

次の候補は平沼騏一郎ですが、彼も辞退。

この結果を受けて、西園寺も仕方なく林銑十郎を次の首相として奏薦しました。こうして、林は第33代首相に就任することになったのです。

家族と総理就任を祝う林(Wikipediaより)

しかし、彼はあまりやる気がなかったようで「早く片付けて玄人に譲りたい」とこぼしていたとか。

また、彼が陸軍の操り人形であることは世間にも見透かされていました。

さて1937年2月2日に第33代内閣総理大臣となった林は、石原莞爾を参謀として組閣を進めていきます。

しかし石原は、あまりの林の頼りなさに業を煮やし、絶縁状を叩きつけました。で、陸軍からの支持が得られないと考えた林は、方針を180度転換して陸軍首脳部、平沼騏一郎、近衛文麿などに近い人物を積極的に大臣に起用してバランス人事を行います。見事な変わり身の早さでした。

突然の「食い逃げ解散」

重要な法案はほとんど前内閣から持ち越されたものだったので、他の政党との摩擦はほとんどなく、議会ではスムーズに予算などの法案が通過します。

法案通過に際しては、林は衆議院に対して平身低頭、非常に腰の低い態度だったため、陸軍による軍拡予算も不承不承ながら受け入れられのでした。

しかし会期末日の3月31日、林は何の正当な理由もなく議会を解散しました。法案を通過させるだけさせておいて、実際には政策を一切実行しないまま解散するのは食い逃げのようなもので、これは「食い逃げ解散」と呼ばれます。

林は前日の3月30日に、閣僚たちに突然解散する方針を告げていたそうです。もちろん閣僚たちは反対しましたが、林は一人ずつ別室に呼んで解散を承知させる形で意志を通したのでした。

よく分からない勝敗

林内閣の突然の解散に正当性がないのは明らかで、4月30日に総選挙が行われましたが既成政党の勢力はほとんど変わらず、与党はわずかに40名前後の議席を確保します。しかしもともと少数与党だったため、勝ったのか負けたのかもよく分からない状態でした。

野党議員たちも「食い逃げ解散」で負けてはメンツに関わるので、結束して林内閣に対抗していました。

よって、議会で過半数を取れていない林内閣には総辞職するしか道はなく、大局的に見れば与党の惨敗だったと言えるでしょう。

彼が食い逃げ解散を断行したのは、軍部に有利な政党が結党されるのを期待したからだとされています。ただ彼自身、解散時に「政党の連中に懲罰を与える」などと述べており、当時の多くの軍人が抱いていた政党政治家への恨みと憎しみをぶつけただけとも言えるでしょう。

ざっくり言えば、軍人政治家が政党政治家にケンカを売ったのが「食い逃げ解散」だったと言えます。林は議会の手続きを無碍にするようなタイミングで総選挙に臨み、最終的には自滅しました。

この、大した功績も残さずに自滅した林内閣には「優柔不断内閣」「浮き草内閣」などのあだ名がつけられましたが、最も有名なのは「何もせんじゅうろう内閣」でしょう。

このように、林内閣があまりにひどかったため、次の近衛文麿内閣には過度の期待がかけられることになったのです。

参考資料
八幡和郎『歴代総理の通信簿』2006年、PHP新書
宇治敏彦/編『首相列伝』2001年、東京書籍
サプライズBOOK『総理大臣全62人の評価と功績』2020年
倉山満『真実の日米開戦 隠蔽された近衛文麿の戦争責任』2017年、宝島社
倉山満『学校では教えられない歴史講義 満州事変』2018年、KKベストセラーズ
井上寿一『教養としての「昭和史」集中講義』2016年、SB新書

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