中世の東北で「平泉」よりも繁栄!「十三湊」を支配した安藤氏の躍進
中尊寺や毛越寺などが世界遺産に登録される岩手県の平泉は、奥州藤原氏の初代清衡が一一世紀末に江刺から本拠を移して以降、一二世紀末に四代泰衡が源頼朝に滅ぼされるまで、一世紀にわたって中世の東北で栄えた都市。
その平泉以上の長きにわたり東北で繁栄した都市がある。青森県津軽半島の十三湊(五所川原市)だ。
没落した平泉に代わって一三世紀の鎌倉時代に勃興し、南北朝から室町時代の初めにかけて最盛期を迎えつつ、室町時代中期の一五世紀半ば、歴史の表舞台から忽然と姿を消した。
その十三湊を支配したのが安藤氏。一族は鎌倉幕府の滅亡に深く関係しつつ、多くの謎を残している。
まず氏名も史料によって「安藤」「安東」と表記が異なり、どちらが正しいかすら定まっておらず(記事では「安藤氏」として扱う)、その素性となるとなおさら。
系図によって異なるものの、安藤氏の末裔が江戸時代になって書き上げた系図を基に記述すると、祖先は『古事記』などに登場する人物で、神武天皇の東征に抵抗した長髄彦の兄の安日。
彼はその後、死罪とならずに放逐され、やがて蝦夷の祖になったという。一族にとって決して名誉な逸話ではないものの、江戸時代までその伝承を守ってきたのは、天皇家や朝廷に抗あらがい、東北の自立を図ろうとした一族の歩みを尊重したためだろう。
というのも、系図によると安日の末裔(安藤一族)は平安時代に「俘囚長」である安倍一族として栄え、前九年ノ役(1051~1062年)で朝廷軍に敗れて討ち死にする貞任の遺児を直接の祖とするからだ。
俘囚というのは朝廷に従う蝦夷のこと。そこには「強い者」という意味が込められている。蝦夷を「えぞ」と読むと日本人とは違う民族とみられがちだが、「えみし」は朝廷の支配が及ばない地域に住む日本人のことだと考えられる。
安藤氏が歴史の表舞台に初めて登場するのが文治五年(1189)。鎌倉に武士政権(のちの鎌倉幕府)を立ち上げた頼朝が平泉の奥州藤原氏を討ったときだ。阿津賀志山合戦(福島県国見町)で安藤一族の者が鎌倉方を手引きしたと『吾妻鏡』に記載されている。さらに鎌倉時代末の史料によると、安藤一族の勢力圏は十三湊を中心に津軽半島から下北半島の沿岸部一帯に及び、源氏に代わって幕府の権力を掌握した執権北条氏によって北奥羽や蝦夷島(北海道)の代官に任じられている。なぜ、そうなったのだろうか。
そもそも幕府の形式上のトップである征夷大将軍はその名の通り「征夷」を実現する必要があり、まだ日本の領域とはいえない北奥羽や蝦夷島はそれを実現するためのもってこいの土地だった。また、蝦夷島は都から遠く離れ、当時、罪人の流刑地としても注目され、実務の上からも管理する必要が生じてきた。ちなみに、それまで「えみし」だった蝦夷を「えぞ」と読んで異民族視していくのは、この頃だといわれる。
ともあれ、幕府の権力を握る北条氏は以上のことを口実に蝦夷や北奥羽の軍事、警察、徴税権を担う地頭となり、その代官に現地の豪族である安藤氏をあてた。
そのことは安藤氏にも富をもたらした。本拠である津軽半島の十三湊が、鮭や昆布などの物産に恵まれた蝦夷島と日本海沿岸などを結ぶ交易の中心地として繁栄するからだ。
こうして北条氏と安藤氏はいわばウィンウィン、共存関係にあったといえるが、蝦夷島で反乱が勃発し、それが北奥羽に飛び火して反乱が拡大した頃から関係がギクシャクする。
安藤季長が代官職として北条氏に反乱鎮圧を命じられながら、なかなか鎮まらず、同じ頃、従兄弟の季久と所領を争う内紛が勃発していた。
その内紛に絡み、北条得宗家(北条宗家のこと)の被官でありながら幕府の権力を握った内管領の長崎高た か資すけが季長と季久の双方から賄賂を受け取り、事態はいっそう紛糾。正中二年(1325)、季長は得宗家の当主だった北条高時に代官職を罷免され、所領を争う季久に与えられたことから幕府への反乱に踏み切ったのだ(安藤氏の乱)。
翌年、鎌倉から追討軍が派遣され、季長は捕縛の上、鎌倉へ連行された。
しかし、それでも反乱は収まらず、季長の被官らが津軽で兵を集めて季久陣営と戦い、反乱の勢いはますます盛んになった。幕府は再び追討軍を派遣。嘉暦三年(1328)にようやく反乱は収まった。
しかし、蝦夷地の騒乱が起きてから一〇年の時を費やし、季長の反乱もなかなか鎮圧できなかったことで幕府の権威は失墜。
また、得宗家の被官(長崎高資)が二重に賄賂を取るという腐敗ぶりも明らかになった。幕府はこの乱の終息後五年で滅び、『保暦間記』(南北朝時代に成立)は安藤の乱を幕府滅亡の主な要因に挙げている。
一方、鎌倉時代の末に一族が出羽の秋田湊(秋田市)へ進出し、こうして安藤氏は勢力圏を南へ広げていた。
■「日の本将軍」の称号をなぜ僭称したのか!?
ところで、乱の主役の一人だった季久(宗季と改名)の玄孫に当たる康季は永享八年(1436)頃、十三湊と日本海交易ルートで繋がる若狭国の羽賀寺(福井県小浜市)の本堂を再建しているが、その際の史料(羽賀寺縁起)に「奥州十三湊日の本将軍安倍康季」と記されている。
安倍氏は安藤一族のルーツだから、その姓を名乗るのはいいとして、「日の本将軍」の「日の本」は「日本」という国号を想起させるだけに、安藤氏が日本を代表する武官(将軍)と受け取れる。なぜ、安藤氏は「日の本将軍」の称号を僭称したのだろうか。
諸説あるが、蝦夷島や北奥羽(いわゆる蝦夷地)は、日が昇る東方に位置し、当時から「日の本」と称する認識があったというのが正解だろう。
前述の「羽賀寺縁起」は後土御門上皇の二五回忌法要が営まれた際に作成されたもの。つまり、天皇家や朝廷も安藤氏が「日の本将軍」と称するのを認めていたといえ、「蝦夷地=日の本」説を裏づけている。
しかし、日本全体も「日の本」ともいうので紛らわしい限りだが、その「日の本将軍」と号した安藤氏は嘉吉二年(1442)、新興勢力の南部氏との戦いに敗れて蝦夷島へ逃れ、十三湊の栄光とともにその宗家の歴史に幕を下ろすのであった。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。