中世の東北で「平泉」よりも繁栄!「十三湊」を支配した安藤氏の躍進 (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 中尊寺や毛越寺などが世界遺産に登録される岩手県の平泉は、奥州藤原氏の初代清衡が一一世紀末に江刺から本拠を移して以降、一二世紀末に四代泰衡が源頼朝に滅ぼされるまで、一世紀にわたって中世の東北で栄えた都市。

 その平泉以上の長きにわたり東北で繁栄した都市がある。青森県津軽半島の十三湊(五所川原市)だ。

 没落した平泉に代わって一三世紀の鎌倉時代に勃興し、南北朝から室町時代の初めにかけて最盛期を迎えつつ、室町時代中期の一五世紀半ば、歴史の表舞台から忽然と姿を消した。

 その十三湊を支配したのが安藤氏。一族は鎌倉幕府の滅亡に深く関係しつつ、多くの謎を残している。

 まず氏名も史料によって「安藤」「安東」と表記が異なり、どちらが正しいかすら定まっておらず(記事では「安藤氏」として扱う)、その素性となるとなおさら。

 系図によって異なるものの、安藤氏の末裔が江戸時代になって書き上げた系図を基に記述すると、祖先は『古事記』などに登場する人物で、神武天皇の東征に抵抗した長髄彦の兄の安日。

 彼はその後、死罪とならずに放逐され、やがて蝦夷の祖になったという。一族にとって決して名誉な逸話ではないものの、江戸時代までその伝承を守ってきたのは、天皇家や朝廷に抗あらがい、東北の自立を図ろうとした一族の歩みを尊重したためだろう。

 というのも、系図によると安日の末裔(安藤一族)は平安時代に「俘囚長」である安倍一族として栄え、前九年ノ役(1051~1062年)で朝廷軍に敗れて討ち死にする貞任の遺児を直接の祖とするからだ。

 俘囚というのは朝廷に従う蝦夷のこと。そこには「強い者」という意味が込められている。蝦夷を「えぞ」と読むと日本人とは違う民族とみられがちだが、「えみし」は朝廷の支配が及ばない地域に住む日本人のことだと考えられる。

 安藤氏が歴史の表舞台に初めて登場するのが文治五年(1189)。鎌倉に武士政権(のちの鎌倉幕府)を立ち上げた頼朝が平泉の奥州藤原氏を討ったときだ。

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