石田三成はじめ有能ぞろい!豊臣政権を支えた5人の家臣「五奉行」の各奉行を一挙ご紹介【どうする家康】

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石田三成はじめ有能ぞろい!豊臣政権を支えた5人の家臣「五奉行」の各奉行を一挙ご紹介【どうする家康】

豊臣政権下で奉行職に等しい5人の人物から構成された五奉行。豊臣秀吉没後は実務を担当し、豊臣政権を支えていきました。

そのような重要な役職を仰せつかったメンバーには、前田玄以や浅野長政、長束正家などがいたのですが、石田三成の知名度が高すぎて他のメンバーについて知らない方も多いはずかと思います。

そこで今回は、五奉行の各奉行が何を担当していたのかと簡単な略歴を石田三成も含めてご紹介します。

司法担当・浅野長政

浅野長政/Wikipediaより

五奉行の筆頭として知られる浅野長政(演:濱津隆之さん)は主に司法に関しての事柄を担当していました。

安井重継の子として生まれた長政は、織田信長家臣で叔父の浅野長勝の養子となったことで浅野家の家督を相続します。

長勝の養子には寧々もいたので、必然的に長政と秀吉は親戚同士となりました

信長死後、秀吉に仕えた長政は、卓越した行政手腕に目を付けられ、太閤検地を実施する役割に任命されます

また、東国の武将たちとの親交があったことから秀吉が諸大名から没収した東国の金銀山管理も任されるほど、秀吉から能力を買われていました。

さらに、天正18年(1590)の小田原征伐では三成に代わって戦後処理の主導的な役割を担い、同年に起きた奥州仕置では実行役を担いました。

長政は秀吉との関係が深いこともあり、文禄元年(1592)の文禄の役で秀吉自らが朝鮮に渡ると言い出した際には、「殿下は随分と変わられた。きっと古狐に取り憑かれたのですな。」と遠慮なく物申すこともあったそうで、秀吉を止めることができる数少ない人物だったことがわかります

この話には続きがあり、自分の首をはねてもこの世には影響がないこと、朝鮮出兵で日本が混乱していること、その状況で秀吉が日本を出たら、日本の平穏が乱れてしまうことを秀吉に伝え、朝鮮への渡海を防ぎました

そして、慶長4年(1599)に徳川家康暗殺計画の関与を疑われ、甲斐国へ謹慎となり、五奉行の職を解かれます。

その後の関ヶ原の戦いでは、家康と親交があったことから東軍に味方し、江戸城の留守居を務めました。その功績により、常陸国真壁に領地を与えられ、真壁藩を立藩しました。

宗教担当・前田玄以

前田玄以/Wikipediaより

前田玄以(まえだ-げんい(演:村杉蝉之介さん))は五奉行では主に宗教を担当していました。

玄以が出身の前田氏は、藤原利仁の末裔である斎藤季基が美濃国安八郡前田に住んだことに端を発しています。ちなみに、前田利家の前田氏は菅原氏系統の一族です。

比叡山の僧だった玄以は信長に招聘されたことで家中に加わり、信長嫡男の織田信忠の家臣となりました。

ほどなくして起こった本能寺の変では信忠と二条新御所におり、信忠の命で逃れました。

天正11年(1583)には織田信雄に仕えます。その時に京都の公家・諸寺社との繋がりを持つ数少ない人物だったこともあり、京都所司代に任命されています

翌年になると秀吉に仕え、京都所司代として朝廷との交渉役を担いました。

関ヶ原の戦いでは、大坂城にいた秀頼の警護の任を全うしました。

この働きが評価され、秀吉より与えられていた丹波亀山5万石の本領を安堵。その後、丹波亀山藩の初代藩主となりました。

行政担当・石田三成

石田三成/Wikipediaより

五奉行の中で主に行政を担当した石田三成(演:中村七之助さん)は、天正2年(1574)頃から秀吉に仕えました。

信長死後、秀吉が頭角を現していくと、三成も天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで先駈衆として一番槍の功名をあげる活躍を見せます

天正14年(1586)には堺奉行に命じられ、堺を兵站基地として整備。九州平定後に命じられた博多奉行では、軍監の黒田勘兵衛と共に復興に従事する活躍をしました

天正18年(1590)に起きた奥州仕置では、奥州における検地奉行を務める実績を残し、秀吉の側近として申し分ない貢献をしました。

しかし、秀吉死後に加藤清正や福島正則らとの対立が勃発。ついには三成の大坂の屋敷を襲撃する事件が起こる事態まで発展しました。

この事件は家康の仲裁で収束しますが、三成はこの事件を機に五奉行の職を外れました。

土木担当・増田長盛

増田長盛/Wikipediaより

五奉行の中では主に土木を担当していた増田長盛(ました-ながもり(演:隈部洋平さん))は、天正元年(1573)に秀吉に仕えます。

天正10年(1582)には奏者に任命され、上杉景勝との外交を担当しました。

以後、天正13年(1585)より長曾我部氏、天正18年(1590)より下野・常陸・安房の各大名といった諸大名との取次を任されました

文禄4年(1595)、豊臣秀保が病没したことで、秀保が所有していた大和国郡山城20万石の領地を拝領されます。

秀吉死後、家康と三成が対立すると、長盛は西国の大名に西軍加担の文を送り、三成に味方する姿勢を見せます。

一方で家康に三成の状況を報告する密書を送っており、スパイとして暗躍していました

しかし、伏見城の戦いや関ヶ原の戦いでは、西軍として参加していました。戦後には出家して謝罪したものの改易。高野山に追放となりました。

高野山を出た後は、高力清長預かりとなるも、元和元年(1615)の大坂夏の陣では自らが烏帽子親を務めた長曾我部盛親の軍に与しました

息子の増田盛次は徳川軍から豊臣軍につくも討ち死に。長盛も戦後自害を命じられ、71歳で生涯の幕を閉じました。

財政担当・長束正家

五奉行の末席で主に財政を担当していたのが長束正家(なつか-まさいえ(演:長友郁真さん))です。

丹羽長秀に仕えていた正家は、丹羽氏が財務上の不正により減封処分を受けると、帳簿を証拠として提出し抵抗。これにより、高い算術能力を買われて秀吉の家臣となりました

豊臣政権では財政を一手に担い、豊臣氏の直轄地の管理や太閤検地の実施を行いました

正家は、兵糧の輸送に関わる奉行職である兵糧奉行を引き受け、天正14年(1586年)の九州平定や天正18年(1590年)の小田原征伐で活躍を見せます。

特に小田原征伐では、20万石の兵糧を問題なく輸送したほか、小田原周辺の米を3万石買い占め、小田原城を兵糧攻めにする働きを残しました。

また、朝鮮出兵でも兵糧奉行を務めました。

他に、農村再建に貢献し、中川秀成の豊後移動の際、隣接する蔵入地代官に協力を求めて、戦によって荒廃した農村の再建、逃亡した農民の還住策を指示した功績も残しています。

秀吉没後は、三成の家康打倒の計画に協力し、慶長5年(1600)に伏見城の戦いに参加。城兵を寝返らせ、内部放火を合図に伏見城を攻略に導いた戦功を挙げました

続く関ヶ原の戦いでは、毛利秀元や吉川広家と共に南宮山に布陣するも、広家の妨害で参加できずに西軍壊滅と同時に撤退を余儀なくされます。

その後は、居城の水口城に戻るも東軍の池田長吉に欺かれ捕縛。弟の直吉と共に家臣の介錯で切腹し、39歳の生涯を終えました。

最後に

五奉行は関ヶ原の戦いを期に解体されてしまいましたが、秀吉が生きている内に組織として構成されていれば、豊臣政権は長く続いていたかもしれません。

また、五奉行に任命されているだけあって個々人の能力が高いことも特徴で、5人が協力していれば家康の台頭に対抗できたかもしれないと思うと、より一層5人のことについて理解が深まるかと思います。

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