【どうする家康 外伝】北条家から徳川家に仕えた中島盛直・中島信久兄弟のエピソード

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【どうする家康 外伝】北条家から徳川家に仕えた中島盛直・中島信久兄弟のエピソード

人質から天下人にまで成り上がった「我らが神の君」徳川家康。その偉業は忠勇無比なる三河武士団をはじめ、後から馳せ参じた多くの家臣たちによって成し遂げられたものでした。

今回は徳川家に仕えたマイナー武将・中島盛直と中島信久兄弟を紹介。二人はどんな生涯をたどったのでしょうか。

清和源氏の末裔

中島家は清和源氏の流れをくむ鎌倉御家人・伴野時長の子孫。中島盛直・信久は中島盛信の子として誕生しました。

甲斐源氏の祖・源義光(新羅三郎)。月岡芳年筆

【中島家略系図】

……清和天皇―貞純親王―源経基―源満仲―源頼信―源頼義―源義光―源義清(武田義清)―加賀美遠光―小笠原長清―伴野時長……(中略)……中島盛信―中島守直/中島信久……

●盛信
筑後守
北條氏直同陸奥守氏輝につかふ。某年死す。年七十五。法名常覚。

※『寛政重脩諸家譜』巻第二百一 清和源氏(義光流)中島

父・中島盛信は筑後守を称し、北条氏直と北条氏照に仕えました。生没年不詳ながら、75歳まで生きたことが分かっています。

兄・中島盛直の生涯

兄・中島盛直(イメージ)

●盛直
大蔵 母は某氏。
北條氏輝に仕へ、甲斐国新府陣の時高名あり。小田原落城の後、天正十九年東照宮にめされ、御麾下に列し、甲斐国中郡のうちにをいて采地三百石をたまひ、陸奥国九戸一揆のとき、岩手沢まで扈従す。慶長五年関原の役に供奉し、十八年六月六日死す。年六十。法名常林。武蔵国世田谷常林寺に葬る。

※『寛政重脩諸家譜』巻第二百一 清和源氏(義光流)中島

兄の中島盛直は天文23年(1554年)生まれ、母親は不明、通称を大蔵(おおくら?だいぞう?)と言いました。

関東に覇を唱えた北条一族の北條氏照に仕え、天正10年(1582年)に起きた天正壬午の乱(織田信長の死によって空白地帯となった武田家旧領の争奪戦)では徳川家康との合戦で名を挙げたそうです。

やがて天正18年(1590年)に羽柴秀吉が北条一族を滅ぼすと浪人し、翌天正19年(1591年)に徳川家へ仕官しました。かつての強敵は心強い味方になると見込まれたのでしょう。

盛直は甲斐国中郡(山梨県)に所領300石を賜わり、陸奥国で勃発した九戸政実の乱では、鎮圧のため陸奥国岩出沢(宮城県大崎市)まで遠征しました。

慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦にも従軍し、慶長18年(1613年)6月6日に60歳で世を去ります。法名は常林、武蔵国世田谷の常林寺に葬られたということです。

【中島盛直の子孫たち】

中島盛直(大蔵)―中島盛昌(十右衛門)―中島盛直(孫兵衛)―中島盛忠―中島盛昌(百助)―中島盛住―中島盛幸……

※『寛政重脩諸家譜』巻第二百一 清和源氏(義光流)中島

弟・中島信久の生涯

弟・中島信久(イメージ)

●信久
五左衛門 中島筑後守盛信が二男、母は某氏。
東照宮につかへたてまつり、慶長五年関原御陣にしたがひたてまつり、元和元年大坂の役に供奉し、のち大番となり、寛永九年死す。年六十二。

※『寛政重脩諸家譜』巻第二百一 清和源氏(義光流)中島

弟の中島信久は元亀2年(1571年)に誕生しました。通称は五左衛門。

恐らく兄と同時期の天正19年(1591年)に家康へ仕官し、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では兄と一緒に従軍します。

元和元年(1615年。慶長20年)の大坂の陣も従軍し、のち大番(親衛隊の一組織)に抜擢されました。

そして寛永9年(1632年)に62歳の生涯を終えます。法名や墓所の記述はありませんが、兄たちと同じだったら寂しくないですね。

【中島信久の子孫たち】

中島信久―中島正平―中島正勝―中島正俊―中島正武―中島正安―中島信敬(のぶのり)―中島信固……

※『寛政重脩諸家譜』巻第二百一 清和源氏(義光流)中島

終わりに

以上、北条氏から徳川家康に仕えた中島盛直・信久兄弟の生涯をたどってきました。

NHK大河ドラマ「どうする家康」本編に登場することはないでしょうが、関ヶ原の合戦には従軍しているので、どこかにいるかも知れません。

こうした無数の勇士たちが東西合わせて十数万人も大結集した関ヶ原の激闘、今から楽しみにしています!

※参考文献:

『寛政重脩諸家譜 第二輯』国立国会図書館デジタルコレクション

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