有楽町の由来にもなった?本能寺の変で逃亡した「逃げの有楽」こと織田信長の弟・織田有楽斎の人生

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有楽町の由来にもなった?本能寺の変で逃亡した「逃げの有楽」こと織田信長の弟・織田有楽斎の人生

織田信長――2023年の大河ドラマ『どうする家康』で大きな存在感を放った彼ですが、他にもさまざまな大河ドラマでそうそうたる役者がその役を演じてきました。

歴史を少しでも習ったことがあれば、恐らく誰しもが知っている信長ですが、その弟・織田有楽斎(おだうらくさい)の存在はあまり知られていないのではないでしょうか?

「逃げの有楽」などと揶揄されることもある彼ですが、実はさまざまな功績を残した人物でもあります。そこで今回の記事では、そんな織田有楽斎の人生に迫ってみたいと思います。

※なお、有楽斎は幼名を源五郎、名前を長益といいます。有楽斎は剃髪した後の号ですが、この記事では有楽斎で表記を統一します。

織田長益像 正伝永源院蔵(Wikipediaより)

織田信長の父・織田信秀の11男として誕生

織田有楽斎は、織田信秀の11男として天文16年(1547年)に誕生しました。兄の信長とは13歳離れていました。母親については信秀の側室の一人と言われていますが、はっきりとはわかっていません。

ちなみに、織田信秀は子だくさんで、息子は12人、娘は10人いました。

若い頃の戦歴はあまり残っていない

織田有楽斎の初陣は美濃攻めの「稲葉山城の戦い」の前哨戦であった「森部の戦い」だと言われています。ただし、病弱だったことから、あまり戦には参加していなかったという説もあります。

一方、有楽斎は学問や教養に強く、コミュニケーション能力にも長けていたことから、交渉役などで強みを発揮していきます。

「逃げの有楽」と揶揄された?

織田有楽斎は、本能寺の変の際、戦わずに京都を離れ、岐阜に逃げたと言われています。このことから、「逃げの有楽」との汚名が。

しかし、その後信長の甥に仕えたり、秀吉の御伽衆に加わったり、家康とも関係が深くなっていきます。

持ち前の交渉力を活かし、大阪冬の陣では和睦に尽力しますが、夏の陣の前に家康に許可を得て大阪城を離れました。その後は京都に移り住み、隠棲します。そのとき、正伝院の再興や茶の湯を楽しんだと言います。その後、75歳で没しています。

ちなみに、東京の「有楽町」という地名は有楽斎の屋敷がこの地にあったから、という説があります(諸説あり、この説を否定する考え方もあります)。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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