日露戦争も乗り切った大宰相・桂太郎!その卓越した手腕と悲劇的最期【後編】

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日露戦争も乗り切った大宰相・桂太郎!その卓越した手腕と悲劇的最期【後編】

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日露戦争も乗り切った大宰相・桂太郎!その卓越した手腕と悲劇的最期【中編】

「内閣の毒殺」と第三次桂内閣の成立

政友会による第二次西園寺内閣「二個師団増設問題」と呼ばれる問題で退陣を余儀なくされました。

陸軍が、満州の権益確保と朝鮮の治安維持のために二個師団増設を要望したのですが、財政上の理由から非承認としたところ、陸相が辞表を出したのです。

当時のルールでは、内閣の方針と大臣の方針が不一致となり、かわりの大臣が見つからない場合は総辞職するしかありませんでした。こうしたこともあって、陸相、つまり陸軍との不和が仇となり、西園寺内閣は総辞職に追い込まれます。

これは陸軍による内閣の「毒殺」とされ、陸軍や、それを率いていた山縣有朋はマスコミから非難されました。元老会議では西園寺が留任を説得されますが、さすがの西園寺も元老たちに不信感を持っておりこれを拒否します。

内閣退陣の元凶となった陸軍大臣・上原勇作(Wikipediaより)

誰が首相になっても、その人が非難を浴びるのは明らかで、誰もが首相就任を拒みました。また政党嫌いの山縣有朋は政党政治家の擁立を許さず、やむを得ず桂太郎が再び内閣を組むことになりました。

この時、彼が首相になることを引き受けたのは、高齢の山縣有朋に後輩として迷惑はかけられない、と考えたからだと言われています。そして桂はこの時の無理が遠因となって命を落とすことになりました。

第一次護憲運動による暴動

第三次桂内閣が成立した流れは、桂にとっては悲劇的だったと言えます。もともと彼は「山縣寄り」の人間と見なされていましたし、宮中で内大臣兼侍従長に任ぜられた桂が、第二次内閣退陣から四カ月そこそこで首相になるのは「宮中・府中の別」のルールを乱すとして非難され、第一次憲政擁護運動が起きたのです。

宮中・府中の別とは1885年に確立した暗黙のルールに近いもので、一度宮中に入った人間は政治家として政府内で仕事をしてはいけない、というものです。

桂太郎旧宅(山口県萩市)

これに反するのは憲法違反だとして、対立関係にあった議員は藩閥政治と陸軍を批判するようになりました。「政府は憲法を護れ」ということで、この動きは護憲運動と呼ばれたのです。

民衆の怒りも爆発し、政府系新聞社や警察署も襲撃を受け、鎮圧のために軍が出動する事態に発展しました。

やむなく第三次桂内閣は1913年に退陣し、「民衆が内閣を倒した」日本史上初めての例となりました。

無念の退陣と逝去

しかし、桂もただ退陣したわけではありません。前述の第一次護憲運動によって政党内閣からの非難を浴びたことで、政党の必要性を痛感した桂は、第三次内閣発足後に政友会に対抗する新党設立を考えていました。

しかし「政党嫌い」の元老・山縣有朋がこれを許さなかったのです。

桂はここで抵抗を押し切り、大隈重信と協力して新政党を組織しようとしますが間に合わず、志半ばでの退陣となったのでした。

早稲田大学の大隈重信像

彼は本当は、政党政治の中で、陸軍や官僚機構を現実的な路線へ導く確かな構想を持っていたことが分かっています。

そして退陣から八か月後の10月10日に、桂は胃がんで死去しました。享年67歳。会葬者は数千人にのぼり、なぜか彼を護憲運動で追い込んだ民衆も押し寄せたといいます。ちなみに彼の新党構想は、死後、立憲同志会という形で1913年12月に結実しました。

こうした経緯もあり、桂太郎は現在も「憲法に違反した政治家」のイメージで語られることが多いです。しかし実際には日露戦争を乗り切って社会不安の払拭に努め、巧みな方法で政権維持を果たした卓越した手腕の政治家だったと言えるでしょう。

その在任期間の長さが最近まで破られることがなかったのは、決して伊達ではなかったのです。

参考資料
八幡和郎『歴代総理の通信簿』2006年、PHP新書
宇治敏彦/編『首相列伝』2001年、東京書籍
サプライズBOOK『総理大臣全62人の評価と功績』2020年

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