阪神vsオリックスも最高潮!大谷翔平、長嶋茂雄、清原和博…プロ野球「日本シリーズ」伝説の激闘&事件“舞台裏20”

セ・パ両リーグの覇者たちが雌雄を決する日本一の大舞台。監督をはじめ、投手も打者も死力を尽くした現場に肉薄!!
1964年の南海対阪神以来、59年ぶり2度目となった関西対決。互いの本拠地を15分の距離で結ぶ阪神対オリックスの“阪神なんば線シリーズ”が、最高潮の盛り上がりを見せた。
今回は、球史を彩る多くの名勝負の舞台ともなってきた、日本シリーズを総まくり。ONから大谷翔平まで、昭和・平成の名場面&事件の裏側を振り返る。
■巨人V6へ導いたシリーズ男
まずは歴代最多4度のMVPに輝くシリーズ男、長嶋茂雄(87)の名場面から。
その真骨頂とも言えるのが、ロッテとの対戦となった70年の第3戦だ。
「この年のミスターは、打点王こそ獲ったものの、打率は2割6分9厘でプロ入り後ワースト。シリーズの最中に高熱を出すなど、コンディションは、いつにも増して悪かったようです」(全国紙運動部記者)
だが、この程度の逆境にミスターは屈しない。第3〜4戦にかけての3打席連続を含む4本塁打。打率4割2分1厘の活躍で、チームをV6へと導いた。
「とりわけ第3戦は、当時10歳の浩宮さま(現・今上天皇)が現地の東京球場で観戦される中で、節目のシリーズ通算19号、20号を放っている。59年の天覧試合を皮切りに、皇室関係者の前では常に無類の勝負強さを発揮した。それもまた、ミスターの面目躍如と言えるでしょう」(前同)
■王貞治が「思い出に残る」と述懐
ミスターをしのぐ歴代最多の出場77試合で、シリーズ最多の29本塁打を打っているのが王貞治(83)だ。本人が、ハンク・アーロンを抜いた756号以上に「思い出に残る」と述懐するのが、阪急・山田久志との対戦となった71年の第3戦だ。
「前年のミスターと同様、この年の王も、8年連続の打率3割と40本塁打がともに途切れるなど、例年に比べると低調。シリーズ開幕後も、打率2割1分4厘と調子は上がっていなかったんです」(同)
だが、0対1で迎えた9回裏。それまでエース山田に3タコに封じられていた王が、2死から逆転サヨナラ3ラン。勢いづいた巨人はそのまま3連勝して、本拠地でのV7を達成する。
王自身はこう語っている。
「(山田からは)前日にも本塁打を打っていたが、それでも彼は真っ向勝負。1、2球と投げてくるうちにタイミングも合ってきた。球に力がある分、バットに当たればよく飛ぶ。負け試合の一歩手前で打っただけに、僕自身にも思い入れが強いのかもしれない」
■西武ライオンズと因縁
時は流れて、前年Vの西武が、巨人を相手に王手をかけた87年の第6戦。監督となった王との浅からぬ因縁から、試合中に男泣きを見せたのが当時プロ2年目、弱冠二十歳の清原和博(56)だった。その様子をベンチで見ていた“西武の頭脳”伊原春樹氏が振り返る。
「吉村禎章の遊ゴロをさばいて、あとアウト一つの場面で二塁手の辻発彦が急にタイムをかけてね。泣いているとまでは分からず、“アイツらは何をやってんだ”という感じで見ていた。ただ、巨人入りが確実視されていた中で、他ならぬ桑田真澄にドラ1の座を奪われた、その悔しさは察するに余りある。相手ベンチに王さんがいたことで、感極まったんだろうね」
ちなみに、「9回の守備につくとき、突然、体にガタガタと震えが来た」と後に語った清原は、試合終了後の囲み取材で、「プロ入り時から打倒巨人が目標ですから」と、毅然とコメント。KK事件への直接の言及はなかった。
だが、前出の伊原氏は、「あの一戦で、彼の巨人軍への思いはかえって強くなったのでは」とも続ける。
「その後も直接問いただすようなことは特になかったけど、思いはずっと秘めていたんじゃないか。FA移籍の96年なんかは、終盤になるにつれて、身につけるものにオレンジ色が増えていた。見れば聞かずとも分かったよ。“これは行くだろう”ってね(笑)」
■野村ID野球でイチロー封印
一方、監督とコーチで何度も日本シリーズを戦った伊原氏が「最も印象に残る対戦」として挙げるのが、92年のヤクルト対西武。野村克也対森祇晶(86)の名捕手監督の初対決となった。
西武有利と目されていたが、第1戦でヤクルトの杉浦亨から劇的な代打満塁サヨナラ弾が飛び出したことで一転。
最終戦も石井丈裕と岡林洋一の両先発が一歩も譲らず、10回を投げきる文字通りの死闘となった。
「10回表に秋山幸二が打った犠飛が結局、決勝点になったけど、終盤はピンチの連続。三塁走者の広沢克己が行儀のいいスライディングをしてくれたおかげで、難を逃れた7回裏1死満塁の場面なんて、誰も声を発せなかったくらい、ベンチも緊張感で満ちていた。阪神へコーチで行ったときも、野村さんは“あれは広沢のバカが”とボヤいてたしね(笑)」(伊原氏)
92年が森西武の最高到達点だったとすれば、95年は野村IDの全盛期だ。
難敵イチロー(50)に対して仕かけた、メディアを巧みに使う野村流の心理戦は、今もなお語り草だ。
「打者なら誰もが苦手な内角高めが弱点と吹聴することで、イチローをあおったわけです。プライドを傷つけられた彼は、当然、そこに執着する。第5戦で、ブロスの内角高めを本塁打にしたのはさすがでしたが、キーマンをわずか5安打に抑えた“ID野球”の完勝でした」(スポーツ紙デスク)
むろん、これらは短期決戦だからこそ有効だった奇策のたぐい。
「イチローに攻略法などなかった」と言う伊原氏は、こう続ける。
「野村さんのしたたかさは見事と言う他ないけど、もし当時のセ・リーグに彼がいたら、ヤクルトもたちまち対処されて、いいようにやられていたはずだよ。当時の彼には、本当に打つ手がなかったからね」
■最初で最後のON監督対決
そして、00年にはミレニアムにふさわしく、最初で最後のON監督対決も実現。
かつて巨人の監督を追われた身でもある王監督にとっては、「巨人に勝って日本一になる」ことが、宿願だった。
「敵地・東京ドームで連勝するも、本拠地・福岡で痛恨の3連敗。第6戦にも大敗して、ON対決はミスターに軍配が上がりました」(スポーツ紙デスク)
その日の試合後のことだ。
「職員が深夜になっても照明の灯る三塁側の関係者ルームを覗くと、王さんは着替えもせずに一人残って物思いにふけっていたとか。世界の王にとっても、野球人生で最も悔しい一日だったのかもしれません」(前同)
■落合博満の非情采配の真相
00年代に入って物議を醸した出来事と言えば、落合博満(69)監督が率いる中日が、初の日本一に王手をかけた07年の第5戦。
完全試合ペースの山井大介(45)を8回で降板させた“オレ竜”の非情采配が、話題になった。
当時の森繁和ヘッドコーチと親交が深い伊原氏が裏側を、こう明かす。
「モリシゲに聞いた話では、山井の中指のマメが潰れて血でグシグシ。もう、どうしようもなかったと。だったら対外的にも、そう説明すればいいんだけど、何も言わない監督を飛び越えて、モリシゲが口を開くわけにもいかないしね。当時は非難もされたけど、監督の落合とすれば、最後まで行かせてやりたい親心との、せめぎ合いもあったんじゃないかな」
■30連勝のマー君が敗北で奮起
前年の3勝、ポストシーズンでの2勝を含む前人未到の30連勝と田中将大(34)の独壇場だった13年。彼にとって唯一の黒星が、9回完投も2対4と敗れた、日本シリーズ第6戦だった。
「田中の渡米は既定路線だっただけに、星野仙一監督も勝負が決した時点で降板させるつもりでしたが、当の田中は続投を志願。結果160球を投げ切った。翌日のメンバー表に田中の名前を見つけた巨人ベンチは半信半疑で、連投までするとは思わなかったようです」(専門誌記者)
■史上初!二刀流でリーグMVPとベストナイン投打同時受賞
今や大リーグを席巻する大谷翔平(29)が二刀流で、リーグMVPと史上初となるベストナインの投打同時受賞を成し遂げた16年。初戦で敗戦投手となった大谷が、本拠地・札幌に移った第3戦で、指名打者としてスタメン出場した。
シリーズ初のタイムリーとなるサヨナラ打で、自らが招いた敵地連敗の悪い流れを断ち切ることに成功する。
「王手をかけた第6戦では、4対4で迎えた8回表、2死満塁の場面からフェイクで、ネクストバッターズサークルにも立ち、大量6点の呼び水ともなっている。本塁打こそ出ませんでしたが、存在感は当時からMVP級でしたね」(前同)
■「巨人はロッテより弱い」発言
最後に、日本シリーズ史上最大の“事件”とも言える、87年の巨人対近鉄の第3戦。
かの「巨人はロッテより弱い」発言の真相を、元近鉄の加藤哲郎氏自身に語ってもらおう。
「僕は、懇意の記者に“どっちが怖いか”と聞かれたから、率直に“ロッテ”と答えただけ。それが活字になった段階で“ロッテより弱い”に化けたんです。そもそも当時のパ・リーグは西武が圧倒的に強かったし、3位のオリックスまでのゲーム差も0.5。前年にはロッテ相手の『10.1』でも苦しんだ。ロッテ打線にはなぜか、よく打たれる、というのが当時の実感でもありました」
むろん、今となっては当の加藤氏も「他に言い方はもっとあったと思う」とのこと。自身の発言が巨人ナインに火をつけたのも敗因の一つ、との自覚もある。
「彼らが3連敗で抱えていたふがいなさや情けなさを“ぶつける場所”を、僕が作ってしまいました。でも、明確に流れが変わったのは、第5戦で吉井(理人)が食らった原(辰徳)さんの満塁弾。1点差負けと1対6では、受けるダメージもまったく違う。一番打たせてはいけない相手に打たれたあそこが潮目だったと思います」
さて、今年はどんな名勝負が生まれるのか。
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