江戸時代を代表する「霊界案内人」国学者・平田篤胤「研究の原動力」 (2/3ページ)
さらに二九歳で私塾の「真菅乃屋(のちの気吹舎)」を開き、この辺りから本格的に思想家としての人生を歩み出す。
ただし、宣長の国学が実証主義(主観的な推論を排除する学問の姿勢)に基づいているのに対し、篤胤の国学は事実を恣意的に解釈しているとして、宣長の弟子の一人から「さまざまな書物を自分勝手に利用して自由に理屈をつけるのが上手な人」(吉田麻子著『平田篤胤』から引用)と糾弾されたという。
その篤胤は尊王を主張し、仁孝天皇に著作を献じる一方、江戸幕府は彼の思想を危険なものと断じ、天保一一年(1840)暮れ、著述の禁止と江戸退去を命じた。
篤胤は当時、秋田藩に帰藩しており、翌年、国元に蟄居することになったが、それでも門人は増え続け、天保一四年(1843)、秋田で死去する(享年六八)。
それでは死後、篤胤はどうなったのだろう。彼が三七歳のときに刊行した霊界案内書といえる『霊能真柱』に、こう記している。
自分が亡くなったあと、先立たれた妻を伴って本居宣長のところへ飛んで行き、春には山桜、夏は青山、秋は紅葉と月、冬は雪を三人で愛でて楽しむことだろうと。
つまり、この江戸時代の霊界案内人は、霊界でも現世と同じように生活できる――すなわち、霊界は現世から見えないだけで隣り合わせの身近な存在だと認識しているのだ。
篤胤がこういう考えに至った理由の一つに、早くに亡くなった妻織瀬の存在がある。彼が平田家の養子になって生活が安定した翌年、二六歳のときに沼津藩士石橋宇右衛門の娘と結婚。彼がいかに亡くなった妻を愛していたかは、後添いの女性にわざわざ織瀬と名を改めさせたことでもわかる。
篤胤が『霊能真柱』の草稿を完成させた約半年前に、その最初の妻を亡くしており、その最愛の女性にもう一度会いたいという切なる願望が、霊界は現世と隣り合うように存在し、現世で関係した人たちと楽しく暮らせるというイメージに繋がったともいえる。