江戸時代を代表する「霊界案内人」国学者・平田篤胤「研究の原動力」 (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 平田篤胤は幕末の尊王思想に重大な影響を与えた国学者だ。

 国学とは『古事記』『日本書紀』『万葉集』などの日本の古典を研究対象とし、中国などの外来文化の影響を廃し、日本固有の思想や文化を究明しようとした学問のこと。本居宣長がその大成者として知られている。

 篤胤は二八歳のときに彼の著書『古事記伝』を初めて読んで感動し、師事しようとしたが、すでに二年前に他界していたため、亡くなった宣長と夢の中で対面し、弟子入りを許されたと公言。そのことからしてユニークだが、篤胤は今でいう霊界(幽冥界)の案内人でもあった。

 実際に彼は霊界と現世を往来したと称する少年や別人に生まれ変わったという少年の話を信じ、そこから江戸時代の霊界研究書ともいえる『仙境異聞』や『勝五郎再生記聞』などの著作を残した。国学者の篤胤が、なぜ霊界の案内人になったのだろうか。

 篤胤は安永五年(1776)に出羽国久保田(現秋田市)で秋田藩士大和田清兵衛の四男として生まれた。しかし、幼少期は決して幸せではなかった。幼少の頃より父母に育てられず、いろんな家へ養子に入ったり、実家に戻ったりの繰り返し。

 実家に戻ったときにも他の兄弟から飯炊きや掃除、草むしりなどの家事を押しつけられたという。

 そして二〇歳になる正月八日、五〇〇文の銭とともに藩を飛び出し、江戸へ出たと、のちに養子となる平田鉄胤に述懐している。

 出奔までに苦労しながらも儒学や医術を修めていた彼は、江戸へ出て三年後、二三歳で、はや一人前に「大壑(広い海という意味)」と号しているから、学問で身を立てようとしたのだろう。

 当時、彼が江戸でどんな苦学生活を送っていたかは不明だが、二五歳のとき、江戸勤めの備中松山藩士平田藤兵衛の養子となって名を篤胤と改めて以降、生活もまずまず安定し、彼の学問は一気に進んだようだ。

 その後、篤胤が宣長の著書に感銘を受けて師事しようとしたころ、儒学者の太宰春台の思想に反論した『呵妄書』(初めての著書)を完成させた。儒学を学んでいた篤胤が、その儒学を批判したのだ。

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